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知恵袋の質問に回答する

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12157746982
※投稿しようとすると英文サイトに飛ばされて投稿できないので。

a.光武帝及びその家臣たちは全能力値90越えの化け物だらけ
 これがおかしいです。別に曹操、劉備、孫権あるいは劉邦の部下と比べてもやや優秀という程度で、極端な差はありません。

b.新王朝の武将たちは能力値60代の凡将だらけ
 これも変です。新王朝を倒したのは更始帝です。光武帝じゃありません。光武帝が戦ったのは、新王朝崩壊後に数十の群雄に中国が分割された乱世です。従って新王朝の武将はそもそも敵ではありません。そして敵対群雄にはかなり強力な敵がいます。

①「光武帝は主人公になっても面白くない」
 これは三国志を求めてしまうからです。すなわち、「光武帝は三国志にしては面白くない」と言っているだけです。光武帝は天下統一したので、三国志のような展開にならないのは当たり前で、本人がチートレベルなのは唐太宗や明太祖と同じです。
 光武帝の物語は、勇将の対決の要素は三国志と変わりませんが、孔明と仲達のような知恵バトルがなく、かわりに二十八星宿や予言書のようなファンタジー要素が強く、陰麗華とのラブストーリーがあるなど、方向性がかなり異なる物語です。中国では『秀麗江山』というタイトルで、劉秀と陰麗華とのラブストーリーが小説や連ドラとなり、まずまずのヒットを記録しています。

②「主人公になっても盛り上がらない」王朝の創始者
 確かに司馬炎は盛り上げるのが難しいと思いますが、どんな人物を選んでも結局は作家の腕次第でしょう。
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http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/49.htm
に追記

 皇帝劉秀がいたのは南宮であるが、郭聖通は北宮へと移った。郭聖通の五人の息子も一緒に北宮に暮らしたと記録される。五人の王は、賓客を多く集め威勢も大きかったことから、その母である郭聖通の待遇も相当に裕福であったと考えられる。

郭聖通が溺愛していた末っ子の劉焉のみは、死後も洛陽に残ることになった。郭聖通に愛児のことを何度も頼まれ、劉秀も手放せなかったのであろう。

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http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/40.htm
 この呉漢の行動と連動していると見られるのが、功臣の引退である。建武十三年(西暦37年)に鄧禹、耿弇、賈復、建武十五年(西暦39年)に朱祜、李通が引退しているが、彼らはみな大豪族であり、大土地所有者である。度田において、最も危険な立場になる人物が直前に引退していることがわかる。彼ら自身は劉秀の腹心であるが、その家族はむしろ豪族側の存在である。豪族側の旗頭に担がれる危険を未然に防いだわけである。功臣でも呉漢、臧宮、馬武、馬成、王覇など大豪族にはほど遠い存在は政権に残っている。例外が劉隆で、見事に処罰されてしまった。


http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/52.htm
金印真贋論争
 国宝の金印については、偽造説も根強く存在する。江戸時代に発見された経緯があまりに不自然であるためだ。
 それでも本物と考えられる理由は、江戸時代には、後漢時代の印章についての情報がなく、後漢時代の他の印章と特徴が一致するものを作ることができないからである。
 金印の印面の一辺は2.341~2.354cmであり、後漢時代の一寸とほぼ一致するが、江戸時代には後漢時代の一寸は知られていなかった。
 考古学者の石川日出志氏は、漢委奴國王の漢字の字形の特徴が、漢代の印章の字形に一致するとしている。さらにこの金印および後漢における金製品の金の含有率が95%前後なのに対し、江戸時代の金製品で最も高純度な小判でも85%前後に過ぎず、江戸時代には高純度の金が入手できないし、比率を知ることもできないという。
 福岡市埋蔵文化財審査課管理係長の大塚紀宜氏は、この金印は、つまみの部分がもともと駱駝の形だったものを、頭部を切り落として蛇に形成し直したものであるという。異民族に贈った印章にはつまみの部分が駱駝のものが多いが、このことも江戸時代には知られていない。
 これらの結果、考古学者には偽造と疑う人はあまりいないようだ。

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各ページに追記と修正

呉漢
 呉漢(二十八星宿の二位)は字を子顔、南陽宛の人である。血縁に有力者もなく、口下手で、容貌も醜くあまり才能がありそうにも見えなかった。しかし努力家であり学問に励み、文字を覚えて役人になる資格を得たが、貧であったために亭長になったと記録される。
 この時代、文書を扱う役人になるには文字をたくさん知っていることが条件であり、資格試験を受けて合格する必要があった。さらにもう一つ財産による制限があった。資産が四千銭以上なくては役人とはなれず、また役人として在任中も資産が四千銭を切ってしまうと失職してしまうのである。役人として仕事に使う車馬や服装は自分で用意しなければならないからである。そのため資産が四千銭ない者を貧と呼ぶのである。
 その資産制限の例外の役職が亭長という仕事である。亭長とは警察の末端の役人であり、とても危険な職業として忌避されて志望者が少ないため、財産制限がなかったのである。それで呉漢は亭長となったのである。

●劉秀に対する絶対の信頼
 呉漢と劉秀の信頼関係は、通常の常識を越えたものであった。
 劉秀の生涯唯一の敗戦である順水の戦いは、実は先鋒の呉漢が深入りしすぎたための敗戦であった。このとき劉秀は呉漢を自ら救出に出陣し、呉漢に先に帰って敗軍をまとめるように指示した。ところが敵の勢いが凄く、劉秀をもってしても止めることができなかったのである。
 このとき呉漢は帰陣したが、耿弇、馬武らは劉秀の指示に逆らい戦場に残っている。常識的に考えれば、耿弇、馬武の行動こそが忠義である。君主を最前線に残して逃げる家臣など忠義とは言えまい。
 さらにその後の呉漢の行動が凄い。
 最前線に君主たる劉秀が残りいつまでも帰ってこないため、兵士のなかで劉秀は既に戦死したのだという噂が広まり、逃げ散りそうになった。このとき呉漢は、
「蕭王(劉秀)の兄の子が南陽にいるから連れてくればよい。主がなくなる心配はないぞ!」
 と、宣言して、この動揺を収め、無事に軍をまとめたのである。劉秀が死んでも関係ないと宣言したのであるから、ほとんど謀反といってもよい暴言である。しかもそもそもこの敗戦の原因は呉漢なのである。まともな神経の人間にはこんな発言はできないだろう。しかしこの発言は、二人の関係に何ら影響しなかったのである。
 また建武十七年(西暦41年)、劉秀が病気で倒れ、首から下が麻痺し身動きができなくなったことがあった。このとき、劉秀は何を思ったか、南陽へ行くと言い出し、俺を車に乗せて南陽へ運べという。
 もちろんこの重病の皇帝を見て、皇帝の体を動かそうする人間はいなかった。医師はみな動かせば死んでしまうかもしれないと震え上がった。ところがこのとき大司馬呉漢は、ちゅうちょなく劉秀を抱えて車に運び南陽に向かったのである。
 もし劉秀がこのために死ねば、呉漢は皇帝殺人犯になってしまうという実に恐ろしい状況であったが、呉漢は全く一顧だにしかなったのである。
 これでわかるのは、呉漢は劉秀のことを文字通り完璧に信頼しており、それがどんなに恐ろしいことでも、劉秀の言葉に誤りなど有り得ないと信じていたということである。すなわち劉秀の考えは自分の理解を超えており、どんなに間違って見えても正しいと確信していたのだ。
 劉秀がかつて彭寵遠征に出陣したのに、すぐに帰還したことがあった。このとき誰にも理由が理解できなかったが、呉漢は、
「陛下は兵法を知り尽くしている。帰るには必ずわけがある」
 と述べている。理由がわからなくても劉秀の言葉は絶対だというのである。呉漢にとって劉秀は神に等しいほどの存在であったとわかる。

賈復
●恐るべき生命力の男
 賈復の驚くべきなのは、その肉体的な快復力である。
 眞定で五校と戦って、瀕死の重傷を負ったのが、建武元年の始めの頃。その後、五月には劉秀軍に合流して、七月には洛陽攻めで先鋒となり攻撃している。回復までおよそ半年である。
 建武二年の秋には鄧奉と戦って重傷を負っている。しかし翌年の四月、鄧奉への戦いには復帰して劉秀とともに敵に突入している。こちらも回復までおよそ半年。
 死ぬほどの重傷も半年あれば全快してしまうのが賈復である。
 これほど命知らずで負傷が多ければ、早死にするのが常識である。
 ところが賈復の没年は劉秀より一年早いだけの西暦55年である。賈復は、その経歴や劉秀の賈復に対する尊称から、同世代ではなく五~十歳は年上と考えられることから、没年は七十歳前後とわかる。
 賈復は全身傷だらけで、大きな刀傷だけで十二もあった。さらに二度の瀕死の重傷を受けてなお当時は極めてまれな年齢である七十歳にまで到達した賈復、その生命力は驚くべきものがある。

岑彭
●不器用な努力の名将
 岑彭の生涯は、決して順風ではなかった。岑彭が運命の君主である光武帝に仕えるまで、甄阜、厳説、劉縯、朱鮪、韓歆とめまぐるしく主を変えている。今の主のために常に誠実であったため、なかなか劉秀に到達することができなかった。
 蜀の討伐では神と称えられるほどの用兵を見せた岑彭であるが、戦いはやや不器用であり、戦いの緒戦では失敗していることが多い。
 鄧奉との戦いでは敵の数倍の九万の兵力をもってしても破ることができず、むしろ朱祜を生け捕られ、賈復が負傷するなど、さんざんな目に遭っている。光武帝は自ら遠征して鄧奉を倒すが、そのときに先鋒として再起用され敵を打ち破ることに成功している。
 秦豊との戦いでは、なかなか攻撃しないところを光武帝に注意されてから敵を破っているし、その後、敵を捕虜にせず皆殺しにしたことから、秦豊戦から解任されてしまっている。しかし後の蜀討伐では圧倒的な軍紀の高さで、無用な命を一切奪うことがなかった。
 蜀との戦いにおいても、緒戦ではむしろ敗戦が続いて荊州の領土を一部奪われている。その結果、水軍を養成することの重要性を認識し、蜀討伐戦で一気にその実力を発揮したのである。
 どんなに失敗しても、その中から学び取ることで、一歩一歩本物の名将へとステップアップしていったことがわかるのである。
 岑彭は悲劇的な最後を迎えるが、ある意味、不器用な男らしい最後であったと言えるかもしれない。

38.公孫述の滅亡
公孫述の国力は三国志の魏に匹敵するほど強大だった
 どうして公孫述は徹底抗戦したのか。そこには国力差が意外に少なかったことがあげられる。
 領土という観点から言えば、公孫述は益州の一州に過ぎず、天下十三州の残りをすべて平定している劉秀と比べれば、12:1となり全く勝負にならないように見える。しかし問題は領土の広さと国力には大きな違いがあることだ。
 漢書の地理志の人口数によると益州の人口はおよそ五百万人である。ただし益州郡は新の時代に長期の戦いがあり、人口が減ったと考えられる。しかしその他の地域では戦乱は公孫述の手腕により早期解決しており、人口減はなかったと考えられる。逆に、田戎、延岑など中原からの逃亡軍団が多数あり、ともなう難民の流入などを考えると人口は増加したとも考えられる。
 難民の流入による人口変動の例としては隗囂軍が挙げられる。天水の統計人口の数倍の兵力を擁していたが、その人口のほとんどが長安からの避難民から形成されているからである。これは赤眉、銅馬などが固定した領土なしに百万近いのと同じ原理である。
 従って、公孫述の成蜀の人口は三百万以上、五百万以下と見てよいだろう。
 対して、劉秀が後漢を統一した時の人口は千五百万人と推定されている。ここから成蜀の人口を引くと、劉秀の後漢の人口は千二百万から一千万人ということになる。
 すなわち、後漢vs.成蜀の国力差は、およそ2倍から4倍となり、領土差ほど圧倒しているわけではないことがわかる。ここに隗囂の隴西が加われば、更に差が縮まり、公孫述の野心が簡単に消えない理由もわかるだろう。
 劉秀の領土が広さに対して人口が少ないのは、その領土が緑林、赤眉、銅馬が暴れ回った地域そのものであり、土地が荒廃しきっていたからである。それに対し、公孫述の領土はいち早く貨幣流通にも成功し、その豊かさで知られていた。
 ちなみに三国志の魏の人口は四百四十三万人という記録があるから、公孫述の勢力は三国志の曹操に匹敵するものと言えるのである。
 
最後の強敵としての公孫述
 公孫述は、軍事においても規律の高い軍隊を作って鮮やかに蜀を統一したし、後の隗囂を援護する戦いでもたびたび謀略を駆使して、後漢軍を苦しめている。策士としての第一級の人物である。
 最後の戦いでも、既に六十を越える年齢でありながら、自ら馬上の人となり武器を取って前線で戦っている。相当な勇将と考えられる。
 公孫述はこそは、劉秀の建国物語の最後の強敵として描くにふさわしい人物である。ちょうど性格も劉秀と正反対であり、自分の信じる正義のために無実の人間を犠牲にすることをいとわない冷酷さを持っている。三国志演義における曹操に似た人物なのである。
 公孫述が低く評価される最大の原因は、馬援の「井の底の蛙」の評である。しかしこれも小説ならば、特別な解釈も可能であろう。すなわち、馬援は本当は刺客であり劉秀を暗殺するために面会したと考えるのである。
 暗殺のために劉秀と護衛なしに対面する、そのための芝居が馬援と公孫述の面会の様子と考えるのだ。馬援が護衛をぎっしり並べた宮殿で公孫述と面会し、それを馬鹿にして「井の底の蛙」と言ってから劉秀に会いに行けば、劉秀は当然、公孫述と逆の対応をすることになる。暗殺には絶好の機会を作ることができるのだ。
 そもそも馬援と公孫述は同郷の幼なじみであり、特別な関係なのであるから、こうした想定は決して荒唐無稽ではないと思う。

20.赤心を推して人の腹中に置く
銅馬戦の長い戦い
 援軍を得た劉秀はここから持久戦に変更する。銅馬軍はたびたび挑発してきたが、劉秀軍は堅く自らの陣営を守った。そして銅馬の兵士が食料を集めようとすると、ただちに攻撃して奪い、その糧道を断った。
 これに対して劉秀軍には常山へ帰っていた常山太守鄧晨から、精鋭の弓手千人が合流した。常山郡からは劉秀軍への物資補給が絶えず送られてきた。
 一月と数日たつと、銅馬軍は食料が尽き、夜に逃げ去った。劉秀は全面攻勢に出た。耿弇が精騎を率いて軍の先鋒となり敵を撃ち破り敗走させた。さらに魏郡館陶まで追いかけて撃破するも、今度は、高湖と重連(二つとも農民反乱軍の名称)が東南からやって来て銅馬軍と合流した。劉秀はふたたび蒲陽で大いに戦い、ことごとく打ち破って降服させた。
 さてここで注意したいことがある。それは銅馬戦における戦場の広さである。
 銅馬の最初の戦いの地点から地図を追っていこう。するとわかるのは想像以上に広い範囲で戦っていることである。清陽、博平、魏郡館陶、蒲陽と戦場が移動している。清陽は冀州だが博平は兗州で黄河沿いで、館陶はその50kmほど西南であるが、蒲陽は中山国の北部にあり、北の幽州との境界沿いであり、 270kmも離れている。ほぼ冀州全域を追い回すように戦っていたことがわかる。おそらく劉秀は、銅馬軍を殲滅する意図はなく、徹底的に追い回すことで戦意を喪失させて降伏させることを狙っていたのではないかと思われる。

中原の鹿捕獲レース、エントリー表

光武帝の物語を盛り上げるには、中原の鹿を追った群雄を特徴付けて覚えてもらう必要がある。劉秀、王莽、緑林、銅馬、赤眉、王郎、鄧奉、秦豊、劉永、張歩、董憲、李憲、彭寵、隗囂、公孫述、延岑、廬芳、徴姉妹あたりにキャッチフレーズをつけて宣伝するのがよい。

では、中原の鹿捕獲レースにエントリーした人たちを見てみよう!

1.劉秀
後漢建国の光武帝劉秀。昆陽の戦いの伝説の超戦士、劉家の血筋を引く美貌、太学のスーパーエリート……無敵のスペックを持つこの男にも重大な弱点が!いい人過ぎること!困った人を助けずにいられずに、死亡フラグを自らかき集めて回る。楽此不疲!面白けりゃエナジーはインフィニィィット!

2.王莽
古代の社会主義者、儒教復古主義の新の皇帝王莽。無敵の権力闘争能力を持ち、人間すべて出世の道具、息子を皆殺しにしても平気、だって予備があるもん!禿禿言うな、カツラつけて何が悪い。高句麗は下句麗だ!この威斗が目に入らぬか!九虎将軍が討伐だ!儒教経典の通りにすれば天下泰平!

3.劉玄
緑林のアル中皇帝、本当の後漢初代皇帝、更始帝劉玄。王莽を倒したのは俺だ!文叔じゃねえぞ!韓夫人!宴会だ!酒盛りだ!王莽も酒は百薬の長って言ってたぜ。あれ、手が震えているのは酒のせいかな?お前ら『秀麗江山』を読むんだ!凄い美男子で狂気の天才策士なんだぞ俺は!

4.王郎
口先三寸で皇帝を詐称した占い師、河北の漢帝劉子輿こと王郎。銅馬に怯える河北豪族をすっかり騙して皇帝となり河北を席巻、劉秀に賞金十万戸をかけて捕縛しようとする。うわっ烏桓突騎ってなんだそれ、それ中原で使うのは反則だろ、卑怯者め!俺の人相ってやっぱり皇帝だよな?

5.無名の銅馬兵
後に光武帝軍の中核となった銅馬軍。河北を流浪し豪族を恐慌に陥れた大軍団。劉秀との戦いの果てに、その義侠に打たれ飛び出したのが成語、推心置腹。名も知れぬ銅馬兵の叫びこそが、後漢王朝と光武帝を生んだ。蕭王は赤心を推して人の腹中に置く人だ、この人のために命をかけようじゃないか!

6.劉盆子
くじ引きで決まった赤眉の皇帝、牛飼い少年、漢の建成帝劉盆子。樊崇のおじさんが怖いよー、何でみんな乱暴なの、人肉食べるのやだ、二百年前の死体とセックスなんてしないでよ。こんな人たちの皇帝なんてやだ-、お兄ちゃん、助けてー(涙)。

7.鄧奉
二十八将を次々と蹴散らす魔神戦士、陰麗華の元護衛隊長、破虜将軍鄧奉。呉漢を蹴散らし、賈復に重傷を負わせ、朱祜をお持ち帰りする無敵の超戦士。二十八将が束になってもかなわない魔神が、光武帝の怒りの猛攻撃を引き出す。陰麗華は俺がもらっていくぜ!

8.劉永
劉秀よりずっと名門で血筋最高、梁漢帝劉永。前漢景帝の弟梁孝王の八世の子孫。河南で強大な勢力を築き、斉王張歩、東海王董憲を左右に従え河北の劉秀と対立する。劉秀?どこの誰だその馬の骨は?下賎どもは我が名にひれ伏すがよい!

9.秦豊
反新挙兵の最古参群雄、楚黎王秦豊。田戎、延岑と組んで岑彭と対決する。いっとくが緑林の反乱なんて俺の後輩だぜ、ぽっと出の雑魚と一緒にするな。岑彭が討伐に来た?紛らわしい名前の奴をよこすんじゃねえ!口喧嘩なら誰にも負けねえ。死ぬまであいつらを罵ってやるぞ!

10.張歩
撃破数最高の東方の豪傑、斉王張歩。20万を越える大軍を擁して天下を狙う。教えてやろう、俺が赤眉を後ろから攻撃して追い出したから、やつら長安に向かったんだぜ。耿弇の兄ちゃん粋がるんじゃねえ、お前の兵力なんて赤眉の十分の一もいねえじゃねえか、俺様の力を見せてやるぜ。

11.董憲
緑林の勇将劉秀に並ぶ二大名将、赤眉の智将、東海王董憲。新の猛将廉丹を討ち取り、新朝崩壊の第一弾を与えた名将。劉永、張歩と組んで二十八将を翻弄したため、ボスキャラ光武帝を召喚してしまい、大打撃を受ける。最後の奇策は劉秀と一対一で対決すること!洛陽で会おうぜ!

12.李憲
王莽時代の廬江太守、海賊退治で名を挙げた名将、淮南皇帝李憲。俺を討伐しに来た馬成って誰だ、知らねーぞ。そんな雑魚相手にできるか、門を閉めて居留守を使って寝とこ。あれ、軟禁されてる。腹減った買い物行きたいから開けてくれー。

13.彭寵
元光武帝軍でありながら王位を目指した叛将、燕王彭寵。なぜです陛下、河北放浪中のあなたを支えて兵糧を供給したのは私ですぞ!私には王がふさわしい!悪いのは全部、朱浮です。おーい、呉漢、蓋延、王梁、帰ってこーい!

14.隗囂
人望抜群で超人気の天才文章家、朔寧王隗囂。文を書けば喧嘩中の光武帝以下、国民全員が回し読みするほどの大作家、一世紀中国の村上春樹。みんな隗王のために死んで後悔なし!チベット騎兵を動員した無敵の軍団を持つ。おい、馬援、本当に劉秀ってそんなに凄いのか、嘘だろ?

15.公孫述
神の如き謀略家で知勇兼備の万能群雄、成蜀の龍興帝公孫述。いち早く貨幣を発行し経済復興を達成し、延岑、田戎、隗囂と組んで天下をうかがう。影の暗殺団を率いて、気に入らない奴は闇に葬る。中原の鹿大会決勝戦に勝ち残り、光武帝と対決する。天子に降伏なし!

16.延岑
赤眉軍に致命傷を与えた天下に名高い勇将、武安王延岑。公孫述と組んで「男児たるもの死中に生を得ん!」の名言を残す。鄧禹、馮異、耿弇、朱祜、祭遵、李通、王覇、岑彭、臧宮、呉漢と激戦を繰り広げる。くそっ、無敵の俺様がなぜ負けてばかりなんだ?史書の記述は嘘だっ!

17.廬芳
匈奴と連合し、漢の末裔を詐称した詐欺師、漢帝劉文伯こと廬芳。匈奴の強力な騎馬部隊に、勇将賈覧を擁する。二十八将の相次ぐ襲来も次々と打ち破って追い払ってしまう。哈哈哈!無敵無敵!つーか、強いのは俺やなくて、やっぱり匈奴?そろそろ降伏しよっかな……

18.徵側姉妹
ベトナムのジャンヌダルク、民族と智と勇の象徴、徵側、徴弐の双子姉妹。虎退治で名をあげ交趾太守の蘇定を殺して挙兵、交州を制覇、南越の女王となる。迫り来る馬援、劉隆の水軍騎馬隊vs.女王姉妹の象部隊の対決や如何に?民を虐げ民族の風習を尊重しない悪徳役人は許さないわ!

光武帝の陵墓について

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/53.htm に追記

光武帝の陵墓について
 建武二十六年(西暦50年)、皇帝の制度に従って、生前より陵墓を作ることになった。劉秀は、
「古代の皇帝の埋葬は、瓦や陶器に木の車や茅の馬だけであったので、後の人はどこに埋葬したのかわからなかった。文帝はそのことをよく理解していた、また息子の景帝も孝行の道に従ってそのように薄葬にしたので、天下が大乱になっても、文帝の覇陵だけは盗掘に遭わなかったが、素晴らしいことではないか。私の陵墓も広さは二、三頃とし、墳丘も作らず池を作って水を流せば十分である」
 と述べた。こうして水を引くために川辺に陵墓が作られたのである。
 実は光武帝陵には論争がある。現在、公式に光武帝陵と見なされているものは、北魏孝文帝のときの祭壇であるという説があるのだ。塩沢裕仁は、桓帝陵とされる劉家井大墓こそ光武帝陵であるという。『水経注』の記載に一致するのは劉家井大墓であるとする。
 三国魏の文帝の曹丕によると、明帝が豪華な陵墓にしたため、光武帝陵は董卓の盗掘にあったとされている。
 しかし盧弼の『三国志集解』は、董卓が諸陵を盗掘したが光武帝の原陵は手つかずのままなのは薄葬したおかげとしている。
 『後漢紀』によると、章帝が光武帝陵や明帝陵に国を設置しようとしたが、東平王劉蒼に諫められて中止したとある。そこで劉蒼は「光武帝は率先して倹約しすべてに古代の制度に従って陵墓を作り、明帝は孝行で父の言葉を守り何も追加しなかった」と述べている。明帝の死後の発言である。このことから明帝が光武帝陵を豪華にしたという曹丕の言葉は、おそらく他の皇帝の陵墓と勘違いしたのだと思われる。
 公式認定されている光武帝陵には、北魏孝文帝祭壇説があることから、盗掘の跡がないとわかる。盗掘の跡があれば祭壇説は消滅するはずだからである。また桓帝陵とされる劉家井大墓は、完全に盗掘に遭っていると考えてよいだろう。
 どちらが正しいのかは確定できないものの、やはり公式の光武帝陵が有力なのではないかと思う。皇后の陰麗華は60歳で永平七年(西暦64年)に亡くなり、光武帝陵である原陵に合葬された。二人は今も同じ墓で、盗掘に悩まされることなく安らかに眠っているのかもしれない。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/50.htm に追記。
軍事史の革命家としての劉秀
(略)
 ただし劉秀は他の名将に比較して、敵を殺さないところに特徴がある。例えば、戦国時代の名将白起は百五十万人近くを破り、そのうち約百万人を殺しているが、対して劉秀は、二百万の十分の一程度の二十万人が戦場で戦死したと見られるものの、半数の百万人は降伏させて、自軍に編入したり帰農させているのである。一人の将軍が降伏させた総数の人類史上の世界記録であるのは疑いようがない。
 これは劉秀は、兵力が少ないことから包囲殲滅線をやらずに、敵を疲労させて降伏に持ち込むのを基本にしていたからである。城攻めにおいても力攻めは決してせず、相手の内応があるまで攻撃しないなど、敵味方の人命損失を最小にすべく注意していたのである。天下を治める皇帝として敵兵もまた自分の臣民であると考えていたからである。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/46.htm に追記。
その美貌は描けるが如し
(略)
 これらの記述は馬援伝において、馬援が五銖銭の再鋳造の提言が実行された後に書かれている。五銖銭の再鋳造は建武十六年(西暦40年)のことで、馬援はこのとき53歳である。中年でありながらこの美貌を保っていたということである。

テーマ : 更新報告・お知らせ
ジャンル : 小説・文学

光武帝の原稿の企画案

①企画趣旨
(光武帝の解説書の意義)
西暦一世紀の中国、光武帝による後漢建国の物語は、実は20年間の群雄割拠の戦国時代でもありました。農民大反乱に始まり、地方軍が首都を占拠して政権交代し、地方官を刷新するも、赴任した官吏や地方の豪傑が漢復興を掲げて挙兵し、乱世の幕が開ける――有名な『三国志』の全く同じ展開の乱世です。『三国志』の姉妹編であり、幻の三国時代と言うべきなのが、光武帝による後漢建国の物語です。

『三国志』は、今や単なる歴史物語に終わらず、キャラクターとして消費される世界ですが、後漢建国物語もそれに相応しいだけの面白さがあります。今回の私の原稿により歴史を解説し、人物像を面白く伝えることができれば、歴史物語を超えたキャラクター消費を生み出す新しい領域を開拓することができます。

光武帝について、日本では宮城谷氏、塚本氏の小説のみで未だに研究書一つありません。歴史の概説書で描かれる光武帝の解説も間違いだらけのままです。しかし中国では再評価が進み、『秀麗江山』という小説とドラマがヒットし、年に三冊以上のペースで伝記や小説が出るようになっています。『史上最も有能な皇帝』、『光武帝劉秀、完璧な王』、『王の中の王、神に等しい光武帝』というタイトルの解説書が出版され、中国史上No.1の英雄であるとの呼び声が年々強まっています。

(光武帝の面白さ)
光武帝劉秀は名君というよりは、映画やアニメ、漫画に描かれるヒーローに似ているのが特徴です。そのため光武帝の後漢建国物語は、ファンタジーゲームのようだと言われます。天の星座、二十八星宿の生まれ変わりと信じられた部下との関係は、君臣の関係というより美しい友情の物語。また同郷の美女陰麗華との純愛物語は七夕物語に似ています。

また歴史の本はしばしば偉人に学ぶというスタンスが多いと思いますが、それならば最も成功した人物に学ぶべきでしょう。光武帝こそは人類史上最も完璧に最大スケールで成功した偉人として知られています。中国では諸葛孔明から毛沢東まで有名な英雄の多くが、光武帝を理想のリーダーに挙げています。

夢は美しい許嫁陰麗華との平凡な田園生活。戦争どころか言い争うことすら嫌う青年劉秀、後の光武帝が、新王朝崩壊の乱世に家族を守るため剣を取って立ち上がったとき、歴史の奇跡が起きた。光武帝は、百万人の大軍を三千人で全滅させた伝説的名将で、将軍として自ら直接指揮し全滅降伏させた敵軍兵力の総数は実数で二百万人を超え世界記録。統一後は奴隷解放と法の下の万人の平等を宣布し、名も無き庶民を最優先とする政治を実践しました。人間の域を超えた勇者と称えられながら、残虐性が全くなく、責めるべきところがほとんど見つからない人物として知られています。

②目次構成案
グーグル、ヤフーなどで"光武帝"で検索したとき、ウィキペディア、ニコニコ百科に続いて表示されるのが↓私のホームページです

http://www.geocities.jp/kaysak864/k-omoshi.htm

↑ 上記のHPに公開されている600頁相当の原稿から、貴社の提示するタイトルや方針によって編集、修整、追加執筆したいと考えています。よって以下は、あくまでも例になります。基本的に時系列に沿って出来事を解説するため似た感じになりますが、内容は違います。180~240頁の書籍として、以下のa~e 案まで5つの目次案が可能であると考えています。もちろん、5冊全部書くことも可能です。

a案.『光武帝伝』
(光武帝の誕生から死までを解説。史書の考証を中心にした正確な伝記)
1.南陽劉氏
2.王莽政権の混乱
3.赤眉、緑林の挙兵
4.光武帝即位
5.天下統一の道
6.後漢の行政改革
7.劉秀の愛情と友情

b案.『冗談で皇帝になった男』
(光武帝個人と陰麗華との愛情を中心にした伝記。深読みの心理分析多め)
1.光武帝についての予備知識
2.表はお気楽学生、裏は侠客
3.百万vs.三千、昆陽の戦い
4.王郎、銅馬を倒して皇帝即位へ
5.戦場を駆ける皇帝、天下統一へ
6.平等主義者としての光武帝
7.家族愛と友情、超ハリウッド級ハッピーエンド

c案.『光武帝と二十八星宿 後漢の統一戦争史』
(光武帝の二十八人の家臣、敵対した群雄の紹介、戦争の展開を解説。事実中心に)
1.郷里と長安での出会い
2.緑林と南陽劉氏の挙兵
3.河北に集結する二十八星宿
4.西方戦線、赤眉と関中豪族、武安王延岑
5.南方戦線、破虜将軍鄧奉、楚黎王秦豊、周成王田戎、淮南皇帝李憲
6.東方戦線、梁漢皇帝劉永、斉王張歩、海西王董憲
7.北方戦線、燕王彭寵、無上大将軍張豊
8.隴西の朔寧王隗囂
9.成蜀の龍興帝公孫述
10.匈奴の皇帝廬芳、南越の女王徴姉妹
11.天下統一と功臣の宴会

d案.『光武帝と幻の永遠王朝 後漢』
(王莽と光武帝の政治方針を比較し、後漢の驚異的な繁栄などを解説する)
1.前漢の政治危機
2.王莽の改革と挫折
3.劉兄弟の挙兵
4.光武帝即位と天下統一
5.奴隷解放と人権宣言
6.土地調査と豪族との対決
7.古代最高の繁栄を記録した後漢王朝

e案.『光武帝言行録 人を動かす人心掌握術』
(光武帝の名言や成語を小見出しとし、個々のエピソードとその心理学的意味を解説する)
1.人を称える言葉
2.現実を冷静に見る言葉
3.自己を再点検する言葉
4.勇気を鼓舞する言葉
5.心を休めるユーモアの言葉
6.人間の本質を説く言葉

光武帝劉秀はただすごいだけでなく奥深くて面白い人物です。読んで面白可笑しくかつためになるように構成できます。

編集のみなさま、是非、ご検討をお願いします。
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光武帝伝ノーカット版(臨時公開中)

光武帝伝ノーカット版(臨時公開中)

光武帝の古典的理解の一例を発見してしまった……

風篁楼:趣味の東アジア史抄事典/東漢 光武帝

これはない。一体、何十年前に書かれた本を参考にしているのか?昔の解説書は原典を読まずに適当に書かれているのに、それをそのまま鵜呑みにしたらしい。後漢に関してはWikiの方が遙かに正確。一昔前の光武帝の解説は共産主義思想の影響で悪の地主階級(笑)という前提を持って『資治通鑑』や『十八史略』の表面の文字を裏読みして書かれていることが多く、『後漢書』すらまともに読んでないんだよね。

> 豪族の自給的荘園経営が伸長したことで大規模な広域交易が衰え、賦税の布帛納化や俸禄の半銭半穀化など、貨幣経済から実物経済への後退が進んだ。

実際の経済流通量は前漢より後漢の方が圧倒的に多いと言われている。そもそも前漢の貨幣経済はそれほど発展していなかった。実物経済と言っても、その実物もちゃんと貨幣として使えるように規格化されていた。後漢は農業を捨てて商業に走る人が多すぎて社会問題になったと『潜夫論』で指摘されるほどなのだ。後漢の経済後退という宮崎市定の説を今も真に受けている研究者はほとんどいないと思う。

> 謹直な為人りは兄の劉縯から、高祖の兄の劉仲に比せられた。

農業に熱心なのを馬鹿にされた。褒められたわけではない。

> 軍事の縮小は匈奴への劣勢となって15年(39)に幽州・幷州の北部を放棄し、

戦乱で放置されていた内地に住民を移住させたもので、軍隊は駐留しているのだから、放棄とは言えない。

> 21年(45)には西域都護復置の要請に応じずに匈奴の西域支配をもたらし、

これは歴史的には外征より内政を重んじた非常に賢明な判断と賞賛されていたが、現代中国にウイグル問題があるため西域放棄を非難されるようになったもの。

> 宣帝以来の快挙とされた22年(46)の日逐王の来降も、積極的には利用しなかった。

日逐王の降伏について家臣の多くは虚偽を疑いあるいは国内の疲弊を考えて拒絶せよという意見が多かったが、光武帝は耿国の意見に従って日逐王を南単于として受け入れた。このため北匈奴、烏桓、鮮卑などの心配がなくなり、国境が安定したと賞賛されている。積極的に利用しかなかったという非難は、匈奴に攻勢を掛けなかったことだが、ここにも現代中国の領土問題が反映されているのである。

> 又た大姓・外戚と官吏との癒着が既に進行し、

進行したのは章帝の頃で光武帝の頃ではなかった。光武帝と明帝の頃の大姓外戚に対する弾圧は強力で、酷吏も多くむしろ逆の意味で反対されていたのである。

> 近代になって称賛される奴隷解放令も、発令が頻繁なことから実効性は疑問視される。

これは実に初歩的な間違い。奴婢解放令は光武帝即位の初期、領土が小さなときから出ており、新しい領土を平定するたびに解放令を出していた。解放令なのだから、自国内にしか効果はなく、領土を拡大するたびに出さざるを得ないのは当然のこと。

> 「官になるなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」とは劉秀に因んだ謡言で、即位後も「執金吾になれればそれでよかったのだ」と述懐したという。

即位後にそれを言った記録はない。これは『三国志』の曹操の晩年の回顧談と混同したものと思われる。

> 職事には厳酷で、韓歆・欧陽歙のような潁川以来の譜代でも刑戮を免れず、

韓歆、欧陽歙ともに更始帝からの降伏組で譜代などではない。おそらく原典の解説書は劉秀が潁川にいたときに帰参した人たちと誤解している。韓歆は王郎平定の後に河内郡に進出したときに更始帝から降伏、欧陽歙は河北平定後に河南郡に進出したときに更始帝から降伏したもの。南陽や潁川出身の家臣団には、光武帝の旧臣と更始帝からの投降組があるのだが、昔の本はこの区別ができていなかったのだ。二人とも広大な土地を持つ大豪族であり、全国土地人口調査(度田)に反対、あるいは妨害したための処罰と見られている。

光栄式数値の説明 劉秀の場合

   統率  武力 知力 政治 魅力
劉秀  94  99  86  100  92

解説

 統率力は高い。劉秀は挙兵当初から軍紀の高さで知られていた。

 武力がなぜこんなに高いと見るべきかは比較して考えるとわかる。劉秀が敵中に突入して戦ったのは少なくとも3回あり、それは王邑との昆陽の戦い、鄧奉との小長安の戦い、龐萌との桃城の戦いである。そのときの同行した将軍を確認すると、
 昆陽の戦い:鄧晨、王覇、任光、傅俊、馬武、臧宮、劉隆、趙憙。
 小長安の戦い:岑彭、耿弇、賈復、傅俊、臧宮、朱祜、王常、劉嘉、耿植。
 桃城の戦い:賈復、銚期、耿純、李忠、邳彤、堅鐔、蓋延、呉漢、王常、王梁、馬武、王覇、そして隗囂の使者である馬援。
 こういうもの凄いオールスターメンバーでなぜ劉秀自らが突入して戦うのか考えると、劉秀が一番強いからと考えざるを得ない。しかも劉秀が戦うと部下の活躍がそれほど目立たなくなるのだ。

 知力はみな過剰評価している。劉秀の知力のエピソードは多く未来予言の形を取っている。部下の将軍の失敗を予言するなど。しかし本当の知力のエピソードというのは、それにより未来の失敗を回避するものであって、そのまま失敗するのでは予言に意味がなく、言っていないと同じ。むしろ劉秀の予言的発言は単に劉秀に発言数が多いことと、外れた予言が史書に採用されていないだけと見るべき。
 また隗囂戦での繰り返された戦略ミスや、廬芳の扱いの失敗とか、戦略眼の悪さを考えるべき。あるいは統一戦争で、平和的に降伏させた敵が少なく中国全土を焦土してしまったことなど、謀略的能力の低さは明白。

 政治力は抜群に高い。特に全国土地人口調査である度田は、昔は失敗扱いだったが、近年はほぼ大成功という判断に転換されている。国全国に展開された人権政策から行政改革までねばり強い政治力は圧倒的。おそらく一個人主導の改革としてはその数も規模も史上最大級でしかもすべて成功している。政治力って忍耐力なんだなあとしみじみ思う次第。

 魅力は実は相当低いんでないかと思う。挙兵前の部下の数を考えると、劉備も曹操も劉邦もいっぱいいるのに、劉秀は事実上部下が一人もいないのだ。朱祜は劉秀でなくて兄劉縯の部下だ。劉秀を評価していたのは、鄧禹と鄧晨の二人だけで、それも部下ではなかった。
 もちろん昆陽の戦い以降、強烈なカリスマ性を見せる。河北で流浪したときの二十八将が吸い寄せられるように集まるのは圧巻だし、皇帝なってからの有能な文官の多さも驚異的。
 ただこれは魅力と言っても、武力が強烈だから武人が集まり、政治力が圧倒的だから文官が集まったという、能力に対する魅力であって、その能力を発揮して初めて感じられるもので、何もしなければ感じられないものであるから、能力としての魅力とは言い難いと思う。

最近買った光武帝本


『刘秀全传:从一介布衣到东汉开国皇帝』
王惠敏
华中科技大学出版社(2012)


(劉秀全伝:一介の民間人から後漢開国の皇帝に)
中国の光武帝解説書。最新の内容っぽいので期待。



『最有本事的皇帝(第1部):天下雄主(天下雄主治世读刘秀)』
雷振
北京时代华语图书(2011)


(最も有能な皇帝:天下雄主)
アマゾンのレビュー数にびっくり。中国の光武帝人気は本物かな?




『最有本事的皇帝;治世读刘秀(第2部):荡平四方』
雷振
北京时代华语图书(2012)


(最も有能な皇帝:掃平四方)
主に中原統一まで



『最有本事的皇帝大结局:内圣外王』
雷振
北京时代华语图书(2012)


(最も有能な皇帝:内聖外王)
隗囂戦と公孫述戦が中心。統治の話は少ないみたいで残念。



『光武大帝:公元一世纪大汉再起』
张雪松(作家)
春风文艺出版社(2010)


(光武大帝:西暦一世紀大漢再起)
80年代後半生まれの作家の光武帝小説。全然途中みたいなんだが……ここから長く続くものなんだろうか?



『汉史不得不说的事儿:东汉卷 光武帝』
郑国明(作家)
广西人民出版社(2010)


(漢の歴史で言わないわけにいかないこと:後漢巻 光武帝)
光武帝の小説。





『광무제와 이십팔장』
이재석(中国文学)
상생출판(2010)


(光武帝と二十八将)
韓国の光武帝本。最初に道教における光武帝の28将と唐太宗の24将の話があったりする。道教ではなぜか萬修が重要な役割をしているようだ。二十八将の解説など。





『광무제 유수와 이십팔장수』
김창수(作家)
하문사(2010)


(光武帝劉秀と二十八将)
韓国の光武帝本。こちらは小説。千ページ近い大作。

新、後漢初期の武将光栄風数値

なんかまあ能力を5つで表すのは無理があるなと思いつつ適当に考えてみた。

   統率  武力 知力 政治 魅力
劉秀  94  99  86  100  92
鄧禹  80  76  80  80  88
呉漢  88  92  82  40  86
賈復  82  96  60  60  76
耿弇  84  92  96  66  68
寇恂  76  76  98  90  82
岑彭  96  86  82  80  88
馮異  94  80  92  82  86
朱祜  84  86  63  46  60
祭遵  99  82  80  70  76
景丹  88  90  60  70  80
蓋延  80  92  60  40  66
銚期  90  94  70  76  78
耿純  76  78  80  84  68
臧宮  80  93  76  20  76
馬武  66  97  46  32  60
劉隆  70  76  60  62  72
馬成  92  64  78  72  48
王梁  68  82  56  60  54
陳俊  82  88  86  80  76
杜茂  70  62  60  68  66
傅俊  56  76  56  52  60
堅鐔  60  80  68  70  46
王覇  96  84  86  80  58
任光  62  64  70  72  60
李忠  64  68  46  84  58
萬脩  52  60  54  56  58
邳彤  60  68  62  86  60
劉植  70  72  52  50  70

来歙  90  88  88  72  88
竇融  86  82  80  84  92
王常  72  84  68  72  80
卓茂  20  10  42  80  84
馬援  86  90  92  90  42

劉縯  82  90  72  74  88
鄧奉  94  100  66  42  78
董憲  92  88  94  68  88
樊崇  80  84  62  42  86
劉玄  62  78  60  60  92
朱鮪  84  72  66  70  78
張歩  80  90  72  62  80
王郎  66  40  70  56  90
公孫述 82  80  80  84  92
隗囂  80  68  72  78  94
劉永  64  56  70  66  92

王莽  36  32  86  40  100
王邑  76  70  50  46  74
厳尤  62  60  90  58  56
廉丹  66  82  64  32  60

自分の力を使うか、他人の力を使うか?

項羽は自分の力を尽くしたが、劉邦は他人の力を使ったので勝利したという。ところが劉秀は自分の力を尽くして天下を取った。この違いは何か?

それは何のためかが違う。項羽は自分の望みのために自分の力を尽くし、劉邦は自分の望みのために他人の力を使い、劉秀は他人の望みのために自分の力を尽くした。

自らの野望のために天下を取った者は、天下を取ってむしろ後悔する。好き勝手振る舞うことができず、窮屈で気苦労が多いからである。こんなことなら皇帝になったりするんじゃなかったと歎くのだ。他人に見下されるのを嫌い、他人に勝つことばかり考える人はそれ故に皇帝まで登りつめるが、いざ皇帝なると皇帝はもはや誰かと競争する存在ではないのである。

劉秀は皇帝になるのを嫌がり、時間と場所を変えて8度も皇帝になるように頼まれた末に皇帝になった。しかしいざ皇帝になると仕事熱心で、楽しいから疲れないというほど、皇帝であることを楽しむことになった。根っから世話好きで、人に指示することよりも、自分で他人に何かをしてあげることが好きな劉秀は、民衆の世話をすることを面白く感じたのである。

この劉秀という男の皇帝として適性を見抜き、真っ先に皇帝になるべきと進言した禹はやはり驚くべき人物であると思う。

もちろん、最近も光武帝について考えている

『东汉光武帝刘秀大传』は光武帝マンセーの人でないと読んでもそれほどおもしろくないかも。間違いも少なくとも三カ所以上ある。

個人的には黄留珠の『刘秀传』もお薦め。また後漢について正しく知りたい人には袁延胜の『中国人口通史 东汉卷』をお薦めする。数字に徹底してこだわる本格的な研究書。実はこの本を読むと光武帝の評価がさらに高くなる。なぜから全国土地センサスと奴婢の人権の平等化が本当に実施されていたことがわかるため。

『後漢書』そのものは、そのまま読むと光武帝は地味で平凡な君主に見えるはず。私のように『後漢書』を何度もしつこく読んで、かつひねくれたものの見方をする人以外に、『後漢書』を読んだだけで光武帝をおもしろいと思う人はあまりいないと思う。私も初めて『後漢書』を読んだとき、光武帝に地味でつまらない印象しかなかった。

ネットで光武帝がすごいと言う人の半数以上は私のホームページ(10年前からある)を読んだからだろうし、光武帝が面白可笑しいという人の99%は私のホームページの読者のはず。予備知識なしに『後漢書』を読んだ人はみんなつまらない人と感じて興味を持たない人が多い。東晋次氏なんて光武帝を書いてって頼まれたのに王莽を選んだぐらいだし。

光武帝は個人思想としては道家、政治思想は法家なので、儒家たる史家にとっておもしろい人物ではなく、よく読めば『後漢書』のいろいろなところで否定的に描かれている。そして無理矢理に儒教的聖王の枠に押し込んだため、長所が全然見えなくなってる。光武帝の本当にすごいところはただ『後漢書』を眺めることでは理解不可能なのだ。というのは内容が本記にまとめられておらず、列伝に分散させてあるから。儒家の好みじゃないから大事なことは隠されているのである。光武帝は褒められるべき部分が全く賞賛されていないのだ。

光武帝の馬武への言葉は自首しなさいという意味。日本の研究者は多く誤訳してるけど、さすがに中国の黄留珠氏は正しく自首と理解している。
「且勿為盜賊,自致亭長,斯可矣。」
「しばらくは盜賊を為すなかれ,自ら亭長に致りて,これ可なるかな。」
「当分は盗賊家業を辞めて、交番に出頭して自首すれば、まあ十分かな」という強烈な宴会でのツッコミフレーズ。自致は検索すると自ら出向くの意味とわかる。亭長は今でいう交番のニュアンスに近い。

馮異は戦うときも後ろにいたわけではない。
「非交戰受敵,常行諸營之後」
「戰いを交え敵を受くるに非ずば,常に諸營の後を行く」
敵を迎えて戦うときでなければ常に他の軍の後ろにいたということ。

光武帝の若い頃の有名な台詞
「何用知非僕邪?」
「僕に非ずと知りて何に用いんや?」
みんなが「大臣の劉秀なのか?」と蔡少公に聞いたので、「僕じゃないことがわかったらこの予言の使い道ないじゃん!みんな僕を皇帝にする気がないの?」という痛烈なボケジョークを入れたということ。

光武帝は郭聖通を婚姻したが劉揚の兵力をもらったわけではない。というのもさらに光武帝が前進したとき兵力が数万人になったと書かれている。劉揚は十万の兵力を持っていたのだから、合流していたのなら数万人なわけがない。河北での光武帝の主戦力は、突騎と銅馬の二つであって劉揚の力はあまり関係がない。

後漢洛陽は二百万都市か?

 後漢王朝は商工業が大きく花開いた時代であった。当時書かれた『潜夫論』には、農地を捨てて手稼ぎに出る人が多かったこと、首都洛陽では農民は人口の10%でしかなかったことが記されている。
 農業をやめて商工業へと転職する人が多く、首都洛陽は遠く出稼ぎに来る人であふれかえっていた。洛陽の人口は、戸籍記録では30万程度にすぎないが、ここには三万人を数えた学生や、大臣とその家族、軍隊などは含まれていない。あくまでも洛陽に農地を持つ本籍地が洛陽の人の人口である。仮に本籍地のある人の半数が農業をやめたとしても農民人口は15万であり、その九倍の商工業人口を合わせると洛陽の人口は150万人となる。実際『後漢書』には、後漢末に董卓が洛陽を破壊したとき、洛陽には数百万の人口がいたことが記されているのだ。
 歴史上の有名な百万都市には、エジプト王朝のアレキサンドリア、ローマ帝国のローマ、唐王朝の長安、日本の江戸などがあるが、その国の人口は3000万~5000万人程度であり、みな後漢より小さな国である。商業の発展した後漢の首都洛陽の人口は百万以上、おそらくは二百万近かったと考えてよいのではないかと思う。

最近買った中国関係の本


『中国人口通史 东汉卷』
袁延胜
人民出版社(2007)


後漢の人口構成から社会を研究する本。
相当に綿密な研究書。




『东汉风云人物』
惜秋(台湾的作家)
广西师范大学出版社(2007)


光武帝の家臣の伝記集。



『汉代的信仰、神话和理性』
鲁惟一(英国汉学家)
北京大学出版社(2009)


漢代の人の思想と思考を知る。



『汉代农业:中国农业经济的起源及特性』
许倬云(历史学家)
广西师范大学出版社(2005)


漢代の生産基盤を知る。



『汉代田庄研究』
杜庆余
山东大学出版社(2010)


漢代の生活の様子を知る。



『中国心理学史』
高觉敷(心理学家、心理学史家)
人民教育出版社(2009)


中国哲学の心理研究の歴史。




『中国哲学简史(英汉对照)』
冯友兰(中国现代哲学家)
天津社会科学出版社(2007)


右ページが英語、左ページが中国語で対照して読むと、
中国語と英語の勉強になる。




『远古中国医学史』
严健民
中医古籍出版社(2006)


漢までの医療史。漢代が含まれていないのがちょっと残念。



『常用汉语虚词英译』
孙瑞禾
商务印书馆(2008)


中国語の虚詞をどう英訳するかの辞典。




『中國語虛辭쓰임辭典』
왕자강
진명출판사(1995)


韓国語の中国語の虚詞の使い方辞典。

最近読み終わった光武帝の研究/概論書

まだ私の知らないことが多少あった。どの本も間違いが多少あるのがちょっと残念なところ。

『汉光武帝刘秀传』
周淑舫
吉林人民出版社(2010)


フルカラーの光武帝伝。
小説も少し混じっている感じ。
奉の反乱の話があるのに結末がない!
統一までの話がほとんど。
三国志演義の光武帝版という印象。



『光武帝』
张树
中国社会科学出版社(2007)


列伝形式の光武帝伝。
民話もたくさん入っている。
劉伯姫の武勇伝が詳しい。
おそらく民話があるのだろう。
三番目の女性の許夫人の伝記まである。



『刘秀传(平装)』
黄留珠
人民出版社(2003)


詳しい研究書。
中間的な評価を与えている。
なかなか良書であると思うが、
共産主義歴史観が少しうざい。



『汉光武帝刘秀』
元庆
华文出版社(2010)


小説も少し混じっている。
光武帝即位までが詳しい。
即位から統一までは少ない。
隗囂戦詳しく、公孫述戦はあっさり。
三国志演義の光武帝版という印象。



『汉光武帝大传』
安作璋・孟祥才
中华书局(2008)


典型的な共産主義歴史観による光武帝伝。
能力は評価されているものの、
大地主扱いなので、不公平な印象が強い。



『东汉光武帝刘秀大传』
臧嵘
人民教育出版社(2002)


共産主義歴史観なしの光武帝伝。
非常に高い評価が与えられている。
光武帝ファン必見必読書!

东汉光武帝刘秀大传

『东汉光武帝刘秀大传』
臧嵘(历史家)
人民教育出版社(2002)


これは凄い。というか、私のホームページの主張とほぼ同じだ。もちろんこっちの方がちゃんと論文してる。私の言いたいことを完全に言い尽くしてくれている。後漢の農地面積が前漢の2.8倍というのは驚きだ。おそらくGNPで言えば前漢の3倍以上にはなるはず。やっぱ陛下の作った国は全然違うぜ!

リンク、大歓迎なんです!

"光武帝"で検索してブログやヤフー知恵袋などを見ると、光武帝についての記事や問答を見かける。その内容を見ると、どうみても私のホームページを参照しているとしか思われない記述がたくさんある。それなのに誰一人として私のホームページへのリンクをつけない。なぜなんだろう?

"やる夫が光武帝になるようです"を推薦する文章はたくさん見かけることから、どうやら、やっぱり私のホームページには重大な欠陥があるような気がする。何だろう、私のサイトは光武帝について隠しておくべき黒歴史なんだろうか?

明らかに参照して書いているのに、リンクをしてくれないのは、もの凄く残念。グーグルでの検索などもリンクの数で決まるし、リンクはしてくれればしてくれるほど嬉しいに決まっているのに……。そもそも最終的に出版を目指している原稿の原案だから、目立てば目立つほどよいんだけど。それに出版されたとき、ネットから私が盗作したと誤解されるじゃないか、これじゃ。みんな冷たいなあ……

南北戦争と光武中興の比較

最近、アメリカの南北戦争の洋書を多数読んでいる。南北戦争は光武中興の戦争と共通点が多く面白い。国家の規模もほぼ同じだし、分裂した祖国の統一戦争であり、奴隷解放が政治の争点になっていることなど。

光武帝の小説を構想する上で問題なのは、女性の登場人物やオリジナルキャラクターをどう設定するか。後漢書とその情報だけではやはり貧弱である。そこで考えているのが南北戦争の登場人物を参照するという方法である。

リンカーンと劉秀にはかなり程度共通点がある。シャーマンと呉漢の比較も面白い。シャーマンは北軍の名将だが南部で略奪し町を焼き払ったことで知られる。リンカーンの妻、メアリ・トッド・リンカーンのイメージは郭聖通に近いものがある。

南部に潜入して奴隷を北へ脱出させた黒人女性ハリエット・タブマン、男装して軍に加わりさらに変装してスパイとして南部から情報を回収したエンマ・エドモンド、アメリカ赤十字の創設者として戦場で治療にうあたっていたクララ・バートン、初の女医エリザベス・ブラックマン、黒人科学者ワシントン・カーバーなども、アレンジ次第で面白いと思う。

また白人青年の将軍グールドとその黒人部隊の話、映画のグローリーのような内容は、絶対使わないと損と思っている。

すっかり放置しているが光武帝について何もしていないわけではないということで。

朕、百姓に益するところ無し

 光武帝は非常に大きく誤解されている皇帝である。
 ひどいのは豪族に推戴された皇帝で権力が弱かったというもの。
 事実は完璧に正反対である。光武帝政権は、民衆の支持をベースにした軍事独裁政権で、皇帝の権力は中国史上最大であった。光武帝は自ら将軍として、中国全土の敵対するものすべて叩きつぶした武人皇帝である。統一後もその軍事力を完全掌握し続けた光武帝の権力は絶大であった。とにかく後漢王朝では、皇帝以外に一切権力がないのだ。そのため皇帝が若くして亡くなって幼帝が続くと、外戚と宦官が権力を握って争うようになった。皇帝の親戚と、皇帝の使用人が、皇帝の権力を借りることで権力をふるうようになったのである。
 後漢王朝の晩期になると、やっと豪族もわずかに力を持つようになる。そして政権を左右しようと挑んだ結果が、党錮の禁である。豪族たちはなすすべもなく権力争いに敗れて散ってしまったのであった。

 光武帝の凄さを挙げれば、武勇、平等、ユーモアの3つである。ところがこれらは儒教においては全く評価されないものである。そのため史書では武勇は目立たないように隠されて書かれているし、平等を示す人権政策もただ記録があるだけだし、ユーモアのエピソードも笑いよりも知恵のエピソードになっている。
 その結果、光武帝の凄さは知られずに埋もれたままだったのである。

 もちろん光武帝にも問題点があった。有名なのは怪しげな予言書を信じたとされることだが、これも誤解がある。他の時代において予言書を信じた者は、そのために誤った行動をして失敗するが、光武帝にはそれがない。というのも、光武帝は予言書を信じたのではなく、現実が予言されていると信じていたのである。そのため現実に合わない予言は無視されたのだ。光武帝は運命論者ではあったが、迷信深いと考えるのは誤りである。

 光武帝で本当に非難するべきことは、その統一戦争である。光武帝は中国全土を戦場にして戦って天下統一したため、凄まじい死傷者が出ていた。新の崩壊から後漢の統一にかけて、人口は半減し、二千万人以上の人命が失われたと考えられている。これを光武帝の責任と考えるのは明らかに酷であるが、光武帝が高祖劉邦のような謀略家であれば、このような結果にはならなかっただろう。もちろんその場合、高祖のような貧弱な政権しか樹立できないが、失われた人命はより少なく済んだはずである。
 私が敢えてこれを指摘するのは、明らかに光武帝自身がそう考えていたからである。光武帝は統一後、戦いという言葉を嫌い、戦争を徹底して回避するようになる。やむを得ない混乱で死傷者が出るとそのたびに死人が出たことを後悔していた。
 光武帝は徹底して民衆の立場に立ち、豪族などが権力をふるうのを嫌っていた。その政治は「以元元為首(民衆を最優先にする)」と呼ばれるようになる。
 光武帝の最期の言葉、死に際しての詔の言葉は、光武帝が最期まで民衆のことを考えていたことを示す、衝撃的な言葉で始まっている。
「朕無益百姓(私は民衆に何もしてやれなかった)……」

宮城谷昌光、光武帝連載始まる

 すべってころんでエンディング経由で知った。

 次の朝刊小説 宮城谷昌光作「草原の風」
 後漢王朝の創始者、光武帝・劉秀。武勇と人徳で、奪われた国を取り戻す英傑の若き日々が躍動していきます。

 おおっこれは!? 私の本も出しやすくなるかもしれん。版元に説明しやすくなるじゃん。期待大。
 でも宮城谷光武帝だと、すんげぇ真面目な人間になりそう。なんでも聖人化しちゃうもんな……
 それでも武勇とユーモアと、ポイントは押さえてある感じが嬉しい。この二つこそ光武帝の必須要素だもん。
 期待と不安が混じるのは宮城谷先生にユーモアという言葉がイメージできないことか……。
 しかし決して塚本光武帝(笑)のようなことにはなるまいて。
 ああっ、でもよく考えたら宮城谷先生だと、最初の2冊はきっと光武帝の親父の話に決まってる。劉秀くん出て来ないに決まっているうぅ!が~ん。

《秀丽江山》(中国の光武帝の小説)


だいぶ読み進んだ。
……いやこれ、無茶苦茶面白いぞ。
光武帝の話が元々武侠小説向きなのがよくわかる。

主人公の麗華はもともと現代で格闘技をやっていたので、
陰麗華の自室でトレーニングしてるのが可笑しい。
性格がかなりふざけている。
読んだ印象は、궁(宮)とらんま1/2を割ったような感じ。(笑)

管丽华完全是金庸式武侠脑子!
根本不听别人的话,老爱打架!

ストーリーの作り方がうまい。
設定は陰麗華が劉秀のことを好きということになっていて、
それを家族は嫌がっていることになっている。

タイムスリップした主人公は当然、
自分の好きな人がどんな奴なのか気になっているのだが、
これがなかなか会わしてくれないのだ。

宴会で出会ったいい男、はや劉秀と思いきや禹。
麗華がノシてしまう。劉秀が弱いのはおかしいと思った。

牛が出てきたので今度こそ劉秀かと思いきや、
これは馬武で、誘拐されてしまうし。さすがに馬武はヤバイ!

はっきり言ってラノベなんだけど、かなり面白い。

最強の勇者としての光武帝

 最近、光武帝の本質はその個人的武勇にあるのではないかと思うようになった。
 歴史小説では一騎打ちが描かれ、将軍の白兵戦も多いが、史実では総大将が白兵戦をするはずもなく、それがあれば負け戦の混乱の中のみである。
 ところが光武帝は将軍どころか皇帝として剣を手に敵中に斬り込み、敵を打ち破るのだ。
 君主なのに陣頭指揮して剣を奮った皇帝を捜してみる。
 後周の世宗柴栄は即位時の危機で陣頭指揮し、自ら斬り込ん戦っているが、部下の将軍たちの逃亡などの異常事態に際しての、皇帝の威信を確立するための緊急事態であった。
 唐太宗李世民も似た戦い方をしたが、皇帝に即位した後に自ら剣を取って斬り込むような暴挙はしていない。あくまでの父の李淵の将軍であった時期のみ前線に出ていた。明の永楽帝も即位前の内乱時のみである。そう考えるとこの光武帝の勇戦ぶりは特異な出来事だとわかる。
 後の残りは、前秦の苻生のような少し頭のおかしい暴君ぐらいである。
 皇帝という枠をはずして、無敵の勇士である西楚覇王こと項羽はどうか?
 しかしその項羽ですら、『史記』では最期の死ぬ間際、逃亡時の戦いでしか白兵戦をするシーンはない。光武帝のように戦いの山場で突入したわけではないのだ。
 すなわち君主なのに敵中に斬り込んで戦うのは、緊急事態か、頭の変な暴君か、無敵の勇士のどれかということになるのである。
 光武帝はどれほどの勇士であったのか? 光武帝の武勇はどのぐらいなのか?
 考えてみよう。小長安の戦いや桃城の戦いでは、家臣の猛将を勢揃いさせている。もし光武帝の武勇がたいしたことがなければ、ただ恥をかくだけである。もしも負傷したり、無様な姿を見せれば、家臣たちはこのぐらいなら俺の方が上だと異心を起こすだろう。家臣たちの結束が失われてしまうのだ。
 しかし逆に、家臣たちから見ても惚れ惚れするような武力があれば、自らの主の強さに家臣たちはその忠誠心を強めるだろう。すなわち光武帝は、賈復、馬武、臧宮、呉漢らの当時の最強将軍たちから見ても敬服に値する武力があったから、このような戦い方をしたということなのだ。光武帝は彼ら最強将軍たちに見劣りしない武力を持っていたと見なければならない。ここで敢えて光武帝自身が戦ったのは家臣たちに見せるためなのだ。
 そしてこの戦いに随行していた外国の使者である馬援は、主の隗囂に次のように報告している。
「未だかつてこのような明主を見たことがありません。才能は人を遙かに越え、その武勇は人間の敵対できるものではありません。心を開いて誠意を見せ、人と語るとき長所も短所も隠すことがありません。天下への大略を持ち、為し得るすべての恩を施します。用兵や戦略では敵を正しく計って勝利します。心が広くて大義を重んじることは高祖と同じです。儒教の経典に博識で、政治や文章は比べられる人もいません。事務に長けて、行動に節度があり、お酒を飲みません」
 ここではさまざまな説明をしているが、その中で最初に語られるのが武勇であることを見逃してはならない。光武帝について考えると、何よりも先に思い浮かぶのが武勇の人というイメージなのだ。そしてその武勇は、人間の域を超えていると述べているのである。

 光武帝は、自らのアイデンティティーを武人であると認識していた。それは光武帝の言葉から読みとることができる。
「妻をめとらば陰麗華、官につくなら執金吾」
 これは、光武帝の若い頃の言葉だが、執金吾とは首都の警察長官のことである。武人の憧れの職業といってもよいだろう。この頃から既に自らの武力に自信があったということだ。
 かつて息子の明帝に兵法を問われたとき、
「昔、衛の霊公が陣法を孔子に質問したが孔子は答えなかった。これはそれはそなたの及ぶところではない」
 と答えている。明帝も光武帝も、光武帝という人物を武人と捉えているのである。
 耿純には、
「純は年若くして甲冑を着て戦う将軍であったに過ぎないのに、郡を治めるとすぐにこのように慕われるほどになろうとは」
 と述べている。耿純も自分も武人であるという共感があってこその台詞である。文人と思ってこれを言えば嫌みになってしまう。
 馬援には、
「伏波(馬援)が兵法を論じると、いつも私と同じ意見になる」
 光武帝はいつもこのように感嘆し、その計略は常に採用された。すなわち、自分の兵法論が正しいから同じになる馬援も正しいという、自身の兵法への自信の言葉でもある。
 臧宮には、
「常勝の将軍は敵を恐れるのが難しい。私自身もそれに気をつけているのだ」
 と言った。自らを常勝の将軍と自認しているのだ。
 光武帝は天性の武人であり、勇者であったのである。

 こうしたことを頭に入れて伝記を読むと光武帝の行動の謎が解ける。それまで儒教的史観による聖人解釈では不自然だった行動が解きほぐれていくのだ。
 お忍びで深夜まで狩猟に出かけたこと。刺客がいまだいてもおかしくない乱世に、平然と微行で出かけ、家臣に止められてもやめなかった。かつて百万敵中を自在に駈けぬけた光武帝にとって、自分の首都で敵を恐れるなど馬鹿馬鹿しかったに違いない。
 馬援と警備なしで面会したこと。未だ敵国かもしれない国の使者である馬援と、警備も武装もなく一対一で面会した。馬援は私が刺客だったらどうするのかと驚いたのだが、これも刺客だとしても返り討ちにするだけのことかもしれない。
 敵の親衛隊長である馬武を呼び出して一対一で面会したこと。馬武は後に光武帝の将軍となり、無敵の猛将として活躍する。光武帝にとっての関羽、張飛である。邪魔な人物である謝躬を暗殺しようとして、敵の親衛隊としてその馬武がいたために中止したとき、光武帝は馬武を呼び出して一対一で面会した。驚くべき行為だが、より驚くべきは馬武の反応である。馬武は「(私は)臆病で兵法も知りません」と、まるでおびえていたような反応なのである。馬武は率直かつ単純な性格で頭に浮かんだことを何の遠慮もなく口にする男であり、しばしば問題を起こした。すると、この馬武の発言は謙遜でなく、文字通り光武帝に呼び出されて恐怖したと考えねばならない。馬武はかつて昆陽の戦いで光武帝とともに戦い、光武帝の戦闘能力を知り尽くしていたのだ。光武帝は馬武が恐怖するほど強かったのである。
 光武帝陣営の関羽、張飛というと、賈復、馬武の2人である。この2人が常に先鋒となり、敵を打ち破ったのである。賈復は自らを一番と考え、何事においても人に譲らず、出しゃばって自慢をする男である。ところが賈復も光武帝の前ではおとなしくなり、光武帝の前では一度として自分の功績を誇ったことがなかったのである。賈復は光武帝の親衛隊長のような存在で、いつも光武帝と一緒に戦っており、賈復もまた光武帝の戦闘能力を知り尽くしていた。
 最強の関羽、張飛級の2人ですら、光武帝には敵わなかったと推測できる。
 さらに項羽と比べてみよう、項羽がかつて章邯を破ったとき、大量の敵軍の降伏をもてあまし、すべて穴埋めの皆殺しにしてしまった。光武帝は銅馬を破り大量の兵士を降伏させたが、逆に自ら武装を解いて敵中に分け入って巡回し、彼らを完全に掌握してしまったのである。これはまさに真の勇気のエピソードである。
 そして統一後は戦いを捨て、戦争という言葉を耳にするだけでも怒り出したという。武人としての強いアイデンティティを持つ光武帝が武を捨てるというのは、並大抵のことではない。まさに君子豹変という語の原義にふさわしい、これまた真の勇者であることを示すエピソードである。

《秀丽江山》


中国大陸で出ている小説《秀丽江山》。
光武帝を扱った長編小説。全四巻と長い。
オープニングは現代で、現代の主人公の少女丽华が、
流星群を見に行ってなぜかタイムスリップして、陰麗華として生きるらしい。
ちょっと《十二国記》を思わせる展開でスタートする。
かなり評判のよい小説らしく、中国アマゾンでも評価が高い。
基本的にラブストーリーだそうな。
私はまだタイムスリップしたところまでしか読んでないけど、
よく調べて書いてると、評判も高いので完読するつもり。

火鳳三國

台湾の三国志のゲームもたいがいだなあ……

終極三國

台湾の三国志関連のドラマ。
三国志を現代の学園ドラマにしたらしい。
登場人物の名前が全部三国志の登場人物。
アイドルコスプレドラマ?
見れば見るほどシュールだ……


akinator

akinator
というゲームをやってみた。
こちらのイメージする人物をコンピュータが質問しながら当てていくもの。
Girl's Generationのテヨン、ジェシカ、ティファニー、ユリとKaraのニコルを当てたので驚き。
Girl's Generationは9人全部知っているみたいだ。

で、本命の光武帝を試すと、当てられず……。
かわりに出てきたのは李世民だった。まっ、惜しいと言えなくもない。
諸葛亮は当てた。劉秀はどうも単に知らないらしいので、申告しておいた。

中世とは何か?

 ヨーロッパではローマ帝国の分裂した4世紀からルネサンス期までをいう。
 日本史では鎌倉時代から戦国時代までとされる。
 古代と中世の違いは、中央集権の度合い。中世は地方政権に分裂した時代なのである。
 中国史ならば三国時代から宋建国までが相当するだろう。
 古代の後になぜ中世が現れるのか?
 それは生産力の向上と情報の移動の問題である。生産力の向上は地方分権への力となる。対して中央集権に必要なものは情報、物資、人間の集中である。あらゆるモノを中央政府に吸い上げることができてこそ中央集権が維持できるのだ。
 古代の統一王朝の成立は騎馬の発達により収集力が高まったことによる。中央へと軍事力、税の物資、情報が吸い上げられるようになったのだ。
 古代が中世へと移行するようになるのは、生産力の向上である。これは主に農業改革によるものである。これにより中央が吸い上げられる以上の物を生産できるようになり、地方が権力を持つようになった。生産力が増えても運送技術も情報技術も変化がなかったため、世界は分裂するのだ。
 注意点は中世は暗黒の衰えた時代ではなく古代よりも発達した時代であること。
 中国史では後漢が最後の古代王朝である。中国では前漢の末期より潅漑と牛耕より生産力が向上し、中世へと向かう条件が整いつつあった。しかし前漢では、その生産力を中央のものとすべく塩鉄の専売や強制労働などで押さえ込んでいた。国営商業システムにより抑圧していたのだ。古代王朝が中世への移行を阻止していたのである。その究極形が王莽である。
 後漢は全く違った。生産力の向上の阻害要因はすべて廃止し、地方を発展に任せ、ただ軍事力のみを中央に集中したのである。それも中央の軍事力を高めるのではなく、地方の軍備を減らすことで中央集権を維持したのだ。
 その結果、後漢王朝は古代の専制統一王朝として古代政治体制でありながら、発展した中世の経済を持つことになった。政治は古代、経済は中世というあり得べからざる体制が、時代の変革期に奇跡的な繁栄をもたらしたのである。

牛郎织女故事的起源 - 刘秀和阴丽华

  七月七日是鹊桥相会的日子(七夕)。七夕是中国的民间故事。最古老的记录在《诗经》里。但在《诗经》里他们还没有谈恋爱。这两个人开始谈恋爱的是汉代以后。
  那么汉代到底有什么事呢?
  下面我想讲一下东汉时代最有名的夫妻的故事。就是东汉建国的光武帝刘秀和其皇后阴丽华。
  刘秀有很多有关牛的故事。他成为皇帝以前,在故乡种田的。他是一个勤奋的年轻人,每天拉牛耕田。然后战争开始的时候,他骑牛出战。还有他做皇帝的时候,他用牛拉的战车,跟北方的匈奴作战。他在泰山封禅的时候,一个神牛来看他。他做皇帝的时候,用牛耕田的方式普及到了中国全国。他的故乡南阳是一个有名的牛的产地。
  皇后阴丽华和刘秀是青梅竹马之交,她是一个有名的美女。阴丽华的家很富裕,但生活很朴素,她自己亲手织布。
  他们俩在战争开始的时候结婚。可是当时的皇帝不喜欢刘秀的才干,让他一个人去河北,阴丽华在南阳等待他。刘秀和阴丽华隔着银河...隔着黄河分开了。
  几年后,刘秀当了皇帝把阴丽华接来,后来他们一起幸福地生活。
  他们俩和牛郎织女的关系,在《汉书》和《后汉书》上能看到。刘秀出生之后,牵牛星旁边出现了很大的彗星,阴丽华去逝之前在织女星旁边出现了很大的流星。
  我想刘秀和阴丽华是牛郎织女故事的起源之一,你们觉得呢?
プロフィール

Author:akira080227
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