スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

更新一覧

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/49.htm
に追記

 皇帝劉秀がいたのは南宮であるが、郭聖通は北宮へと移った。郭聖通の五人の息子も一緒に北宮に暮らしたと記録される。五人の王は、賓客を多く集め威勢も大きかったことから、その母である郭聖通の待遇も相当に裕福であったと考えられる。

郭聖通が溺愛していた末っ子の劉焉のみは、死後も洛陽に残ることになった。郭聖通に愛児のことを何度も頼まれ、劉秀も手放せなかったのであろう。
スポンサーサイト

更新一覧

各ページに追記と修正

呉漢
 呉漢(二十八星宿の二位)は字を子顔、南陽宛の人である。血縁に有力者もなく、口下手で、容貌も醜くあまり才能がありそうにも見えなかった。しかし努力家であり学問に励み、文字を覚えて役人になる資格を得たが、貧であったために亭長になったと記録される。
 この時代、文書を扱う役人になるには文字をたくさん知っていることが条件であり、資格試験を受けて合格する必要があった。さらにもう一つ財産による制限があった。資産が四千銭以上なくては役人とはなれず、また役人として在任中も資産が四千銭を切ってしまうと失職してしまうのである。役人として仕事に使う車馬や服装は自分で用意しなければならないからである。そのため資産が四千銭ない者を貧と呼ぶのである。
 その資産制限の例外の役職が亭長という仕事である。亭長とは警察の末端の役人であり、とても危険な職業として忌避されて志望者が少ないため、財産制限がなかったのである。それで呉漢は亭長となったのである。

●劉秀に対する絶対の信頼
 呉漢と劉秀の信頼関係は、通常の常識を越えたものであった。
 劉秀の生涯唯一の敗戦である順水の戦いは、実は先鋒の呉漢が深入りしすぎたための敗戦であった。このとき劉秀は呉漢を自ら救出に出陣し、呉漢に先に帰って敗軍をまとめるように指示した。ところが敵の勢いが凄く、劉秀をもってしても止めることができなかったのである。
 このとき呉漢は帰陣したが、耿弇、馬武らは劉秀の指示に逆らい戦場に残っている。常識的に考えれば、耿弇、馬武の行動こそが忠義である。君主を最前線に残して逃げる家臣など忠義とは言えまい。
 さらにその後の呉漢の行動が凄い。
 最前線に君主たる劉秀が残りいつまでも帰ってこないため、兵士のなかで劉秀は既に戦死したのだという噂が広まり、逃げ散りそうになった。このとき呉漢は、
「蕭王(劉秀)の兄の子が南陽にいるから連れてくればよい。主がなくなる心配はないぞ!」
 と、宣言して、この動揺を収め、無事に軍をまとめたのである。劉秀が死んでも関係ないと宣言したのであるから、ほとんど謀反といってもよい暴言である。しかもそもそもこの敗戦の原因は呉漢なのである。まともな神経の人間にはこんな発言はできないだろう。しかしこの発言は、二人の関係に何ら影響しなかったのである。
 また建武十七年(西暦41年)、劉秀が病気で倒れ、首から下が麻痺し身動きができなくなったことがあった。このとき、劉秀は何を思ったか、南陽へ行くと言い出し、俺を車に乗せて南陽へ運べという。
 もちろんこの重病の皇帝を見て、皇帝の体を動かそうする人間はいなかった。医師はみな動かせば死んでしまうかもしれないと震え上がった。ところがこのとき大司馬呉漢は、ちゅうちょなく劉秀を抱えて車に運び南陽に向かったのである。
 もし劉秀がこのために死ねば、呉漢は皇帝殺人犯になってしまうという実に恐ろしい状況であったが、呉漢は全く一顧だにしかなったのである。
 これでわかるのは、呉漢は劉秀のことを文字通り完璧に信頼しており、それがどんなに恐ろしいことでも、劉秀の言葉に誤りなど有り得ないと信じていたということである。すなわち劉秀の考えは自分の理解を超えており、どんなに間違って見えても正しいと確信していたのだ。
 劉秀がかつて彭寵遠征に出陣したのに、すぐに帰還したことがあった。このとき誰にも理由が理解できなかったが、呉漢は、
「陛下は兵法を知り尽くしている。帰るには必ずわけがある」
 と述べている。理由がわからなくても劉秀の言葉は絶対だというのである。呉漢にとって劉秀は神に等しいほどの存在であったとわかる。

賈復
●恐るべき生命力の男
 賈復の驚くべきなのは、その肉体的な快復力である。
 眞定で五校と戦って、瀕死の重傷を負ったのが、建武元年の始めの頃。その後、五月には劉秀軍に合流して、七月には洛陽攻めで先鋒となり攻撃している。回復までおよそ半年である。
 建武二年の秋には鄧奉と戦って重傷を負っている。しかし翌年の四月、鄧奉への戦いには復帰して劉秀とともに敵に突入している。こちらも回復までおよそ半年。
 死ぬほどの重傷も半年あれば全快してしまうのが賈復である。
 これほど命知らずで負傷が多ければ、早死にするのが常識である。
 ところが賈復の没年は劉秀より一年早いだけの西暦55年である。賈復は、その経歴や劉秀の賈復に対する尊称から、同世代ではなく五~十歳は年上と考えられることから、没年は七十歳前後とわかる。
 賈復は全身傷だらけで、大きな刀傷だけで十二もあった。さらに二度の瀕死の重傷を受けてなお当時は極めてまれな年齢である七十歳にまで到達した賈復、その生命力は驚くべきものがある。

岑彭
●不器用な努力の名将
 岑彭の生涯は、決して順風ではなかった。岑彭が運命の君主である光武帝に仕えるまで、甄阜、厳説、劉縯、朱鮪、韓歆とめまぐるしく主を変えている。今の主のために常に誠実であったため、なかなか劉秀に到達することができなかった。
 蜀の討伐では神と称えられるほどの用兵を見せた岑彭であるが、戦いはやや不器用であり、戦いの緒戦では失敗していることが多い。
 鄧奉との戦いでは敵の数倍の九万の兵力をもってしても破ることができず、むしろ朱祜を生け捕られ、賈復が負傷するなど、さんざんな目に遭っている。光武帝は自ら遠征して鄧奉を倒すが、そのときに先鋒として再起用され敵を打ち破ることに成功している。
 秦豊との戦いでは、なかなか攻撃しないところを光武帝に注意されてから敵を破っているし、その後、敵を捕虜にせず皆殺しにしたことから、秦豊戦から解任されてしまっている。しかし後の蜀討伐では圧倒的な軍紀の高さで、無用な命を一切奪うことがなかった。
 蜀との戦いにおいても、緒戦ではむしろ敗戦が続いて荊州の領土を一部奪われている。その結果、水軍を養成することの重要性を認識し、蜀討伐戦で一気にその実力を発揮したのである。
 どんなに失敗しても、その中から学び取ることで、一歩一歩本物の名将へとステップアップしていったことがわかるのである。
 岑彭は悲劇的な最後を迎えるが、ある意味、不器用な男らしい最後であったと言えるかもしれない。

38.公孫述の滅亡
公孫述の国力は三国志の魏に匹敵するほど強大だった
 どうして公孫述は徹底抗戦したのか。そこには国力差が意外に少なかったことがあげられる。
 領土という観点から言えば、公孫述は益州の一州に過ぎず、天下十三州の残りをすべて平定している劉秀と比べれば、12:1となり全く勝負にならないように見える。しかし問題は領土の広さと国力には大きな違いがあることだ。
 漢書の地理志の人口数によると益州の人口はおよそ五百万人である。ただし益州郡は新の時代に長期の戦いがあり、人口が減ったと考えられる。しかしその他の地域では戦乱は公孫述の手腕により早期解決しており、人口減はなかったと考えられる。逆に、田戎、延岑など中原からの逃亡軍団が多数あり、ともなう難民の流入などを考えると人口は増加したとも考えられる。
 難民の流入による人口変動の例としては隗囂軍が挙げられる。天水の統計人口の数倍の兵力を擁していたが、その人口のほとんどが長安からの避難民から形成されているからである。これは赤眉、銅馬などが固定した領土なしに百万近いのと同じ原理である。
 従って、公孫述の成蜀の人口は三百万以上、五百万以下と見てよいだろう。
 対して、劉秀が後漢を統一した時の人口は千五百万人と推定されている。ここから成蜀の人口を引くと、劉秀の後漢の人口は千二百万から一千万人ということになる。
 すなわち、後漢vs.成蜀の国力差は、およそ2倍から4倍となり、領土差ほど圧倒しているわけではないことがわかる。ここに隗囂の隴西が加われば、更に差が縮まり、公孫述の野心が簡単に消えない理由もわかるだろう。
 劉秀の領土が広さに対して人口が少ないのは、その領土が緑林、赤眉、銅馬が暴れ回った地域そのものであり、土地が荒廃しきっていたからである。それに対し、公孫述の領土はいち早く貨幣流通にも成功し、その豊かさで知られていた。
 ちなみに三国志の魏の人口は四百四十三万人という記録があるから、公孫述の勢力は三国志の曹操に匹敵するものと言えるのである。
 
最後の強敵としての公孫述
 公孫述は、軍事においても規律の高い軍隊を作って鮮やかに蜀を統一したし、後の隗囂を援護する戦いでもたびたび謀略を駆使して、後漢軍を苦しめている。策士としての第一級の人物である。
 最後の戦いでも、既に六十を越える年齢でありながら、自ら馬上の人となり武器を取って前線で戦っている。相当な勇将と考えられる。
 公孫述はこそは、劉秀の建国物語の最後の強敵として描くにふさわしい人物である。ちょうど性格も劉秀と正反対であり、自分の信じる正義のために無実の人間を犠牲にすることをいとわない冷酷さを持っている。三国志演義における曹操に似た人物なのである。
 公孫述が低く評価される最大の原因は、馬援の「井の底の蛙」の評である。しかしこれも小説ならば、特別な解釈も可能であろう。すなわち、馬援は本当は刺客であり劉秀を暗殺するために面会したと考えるのである。
 暗殺のために劉秀と護衛なしに対面する、そのための芝居が馬援と公孫述の面会の様子と考えるのだ。馬援が護衛をぎっしり並べた宮殿で公孫述と面会し、それを馬鹿にして「井の底の蛙」と言ってから劉秀に会いに行けば、劉秀は当然、公孫述と逆の対応をすることになる。暗殺には絶好の機会を作ることができるのだ。
 そもそも馬援と公孫述は同郷の幼なじみであり、特別な関係なのであるから、こうした想定は決して荒唐無稽ではないと思う。

20.赤心を推して人の腹中に置く
銅馬戦の長い戦い
 援軍を得た劉秀はここから持久戦に変更する。銅馬軍はたびたび挑発してきたが、劉秀軍は堅く自らの陣営を守った。そして銅馬の兵士が食料を集めようとすると、ただちに攻撃して奪い、その糧道を断った。
 これに対して劉秀軍には常山へ帰っていた常山太守鄧晨から、精鋭の弓手千人が合流した。常山郡からは劉秀軍への物資補給が絶えず送られてきた。
 一月と数日たつと、銅馬軍は食料が尽き、夜に逃げ去った。劉秀は全面攻勢に出た。耿弇が精騎を率いて軍の先鋒となり敵を撃ち破り敗走させた。さらに魏郡館陶まで追いかけて撃破するも、今度は、高湖と重連(二つとも農民反乱軍の名称)が東南からやって来て銅馬軍と合流した。劉秀はふたたび蒲陽で大いに戦い、ことごとく打ち破って降服させた。
 さてここで注意したいことがある。それは銅馬戦における戦場の広さである。
 銅馬の最初の戦いの地点から地図を追っていこう。するとわかるのは想像以上に広い範囲で戦っていることである。清陽、博平、魏郡館陶、蒲陽と戦場が移動している。清陽は冀州だが博平は兗州で黄河沿いで、館陶はその50kmほど西南であるが、蒲陽は中山国の北部にあり、北の幽州との境界沿いであり、 270kmも離れている。ほぼ冀州全域を追い回すように戦っていたことがわかる。おそらく劉秀は、銅馬軍を殲滅する意図はなく、徹底的に追い回すことで戦意を喪失させて降伏させることを狙っていたのではないかと思われる。

光武帝の陵墓について

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/53.htm に追記

光武帝の陵墓について
 建武二十六年(西暦50年)、皇帝の制度に従って、生前より陵墓を作ることになった。劉秀は、
「古代の皇帝の埋葬は、瓦や陶器に木の車や茅の馬だけであったので、後の人はどこに埋葬したのかわからなかった。文帝はそのことをよく理解していた、また息子の景帝も孝行の道に従ってそのように薄葬にしたので、天下が大乱になっても、文帝の覇陵だけは盗掘に遭わなかったが、素晴らしいことではないか。私の陵墓も広さは二、三頃とし、墳丘も作らず池を作って水を流せば十分である」
 と述べた。こうして水を引くために川辺に陵墓が作られたのである。
 実は光武帝陵には論争がある。現在、公式に光武帝陵と見なされているものは、北魏孝文帝のときの祭壇であるという説があるのだ。塩沢裕仁は、桓帝陵とされる劉家井大墓こそ光武帝陵であるという。『水経注』の記載に一致するのは劉家井大墓であるとする。
 三国魏の文帝の曹丕によると、明帝が豪華な陵墓にしたため、光武帝陵は董卓の盗掘にあったとされている。
 しかし盧弼の『三国志集解』は、董卓が諸陵を盗掘したが光武帝の原陵は手つかずのままなのは薄葬したおかげとしている。
 『後漢紀』によると、章帝が光武帝陵や明帝陵に国を設置しようとしたが、東平王劉蒼に諫められて中止したとある。そこで劉蒼は「光武帝は率先して倹約しすべてに古代の制度に従って陵墓を作り、明帝は孝行で父の言葉を守り何も追加しなかった」と述べている。明帝の死後の発言である。このことから明帝が光武帝陵を豪華にしたという曹丕の言葉は、おそらく他の皇帝の陵墓と勘違いしたのだと思われる。
 公式認定されている光武帝陵には、北魏孝文帝祭壇説があることから、盗掘の跡がないとわかる。盗掘の跡があれば祭壇説は消滅するはずだからである。また桓帝陵とされる劉家井大墓は、完全に盗掘に遭っていると考えてよいだろう。
 どちらが正しいのかは確定できないものの、やはり公式の光武帝陵が有力なのではないかと思う。皇后の陰麗華は60歳で永平七年(西暦64年)に亡くなり、光武帝陵である原陵に合葬された。二人は今も同じ墓で、盗掘に悩まされることなく安らかに眠っているのかもしれない。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/50.htm に追記。
軍事史の革命家としての劉秀
(略)
 ただし劉秀は他の名将に比較して、敵を殺さないところに特徴がある。例えば、戦国時代の名将白起は百五十万人近くを破り、そのうち約百万人を殺しているが、対して劉秀は、二百万の十分の一程度の二十万人が戦場で戦死したと見られるものの、半数の百万人は降伏させて、自軍に編入したり帰農させているのである。一人の将軍が降伏させた総数の人類史上の世界記録であるのは疑いようがない。
 これは劉秀は、兵力が少ないことから包囲殲滅線をやらずに、敵を疲労させて降伏に持ち込むのを基本にしていたからである。城攻めにおいても力攻めは決してせず、相手の内応があるまで攻撃しないなど、敵味方の人命損失を最小にすべく注意していたのである。天下を治める皇帝として敵兵もまた自分の臣民であると考えていたからである。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/46.htm に追記。
その美貌は描けるが如し
(略)
 これらの記述は馬援伝において、馬援が五銖銭の再鋳造の提言が実行された後に書かれている。五銖銭の再鋳造は建武十六年(西暦40年)のことで、馬援はこのとき53歳である。中年でありながらこの美貌を保っていたということである。

テーマ : 更新報告・お知らせ
ジャンル : 小説・文学

天上の剣客/東漢光武帝記・人物分析&設定7 王郎

●王郎は偽者か?
 劉秀が河北へ赴任して最初に対決するのが王郎である。
 王郎は趙国邯鄲の人である。もともと占い師で天文に明るく河北には天子の気があると言っていた。趙王劉林らと仲が良かった。
 王莽が即位したとき、長安には成帝の子の子輿と名乗るものがいて、王莽に殺された。王郎は自分こそが本物の子輿であると言った。
 母は成帝のお抱え歌手であり子を身籠もった。皇后の趙飛燕が殺そうとしたので、偽の子どもと取り替えたので助かった。十二歳の郎中の李曼卿とともに蜀に行き、十七歳で丹陽、二十歳で長安に帰った。さらに中山を転々として燕、趙を往来して天命を待っていたという。
 さて本当に詐称と考えて良いのだろうか?
 単なる詐欺にしてはあまりに信じる人が多すぎるのが気になる。小説的にはむしろ真実と考えて、劉氏の正統として本気で天子になろうと考えた方が面白い。
 王郎が降伏しようとしたとき、使者となった杜威はなおも王郎は成帝の孫であると言い張った。さらに万戸侯に封じて欲しいと述べた。劉秀のセリフはかなり強烈で、
「かりに成帝が生き返っても天下を取ることはできぬ。ましてニセ子輿では」
 と言い捨て、
「ただ命を助けてやるだけだ」
 と要求をはねのけた。
 こうした記述を見ると、実際に王郎が劉子輿である可能性はあるように思う。
 流浪する皇族の怨念のようなものを描くと面白いかもしれない。
 
●王郎の勢力
 王郎はどんな陣営だったか。
 本拠地は邯鄲である。更始元年十二月に即位した。
 皇帝王郎だが劉郎と名乗ったのだろうか?
 丞相劉林、大司馬李育、大将軍張参。李育は禹や朱浮を破ったことがある。
 鉅鹿の太守王饒は一月あまり攻撃に耐えて手強いので放置されている。
 倪宏はかつて光武帝軍に突入してその太鼓を奪った猛将である。またその同僚に劉奉という将軍がいて、数万を率いていた。
 突騎が南下して王郎軍を蹴散らしたとき、斬首三万とある。
 王郎軍の総兵力は10~20万といったところだろう。
 
●王郎の支持基盤
 彼らの即位は赤眉が黄河を渡り恐怖したためである。王郎の挙兵は農民反乱に恐怖した豪族の抵抗と見ることができる。
 首謀者は趙王劉林と趙国の大豪族である李育と張参である。王郎陣営の実際のリーダーは劉林と考えてよい。
 赤眉が河北に向かうと聞いてそれを恐れ、ちょうど河北に赴任してきた劉秀に水攻めにすることで、赤眉を全滅されることができると進言している。
 劉秀は非現実として拒絶した。それから王郎の挙兵が起こる。
 百万の赤眉を水攻めで全滅できるというのはあまりに非現実的である。包囲されて動けないならともかく、遊動している大軍に水攻めは難しいだろう。また数も多すぎる。
 また挙兵までの短さを考えると、劉林の進言はそのままの意味には受け取りがたい。もともと王郎を中心とした挙兵を進めており、時間稼ぎのため劉秀と赤眉を対決させようとしたのかもしれない。
 王郎の政権は典型的な豪族連合政権であり、赤眉という民衆反乱集団を恐れて結成されたものであることがわかる。そして劉秀は王郎、すなわち劉林にくみせず対決することになる。
 また後に銅馬帝と呼ばれるようになったことを見ても、劉秀が豪族よりも民衆を重視し、民衆の支持を気にしていたことが見て取れる。
 この王郎討伐で最も活躍したのが突騎である。王郎と劉秀の対決は一進一退で膠着していたが、背後からその領土を総なめにして潰滅させたのが、呉漢、耿弇らの突騎部隊である。
 劉秀を豪族の支持という観点から見る意見は多いが、ほとんど間違いであると考えて良い。

天上の剣客/東漢光武帝記・人物分析&設定6 禹

 光武帝にまつわる人物で最も謎なのは禹であると思う。
 劉秀は確かに驚くべき人物であるけども、十分に理解可能だ。その性格は家族に愛されていたことの現れだし、能力はその身体的な健康さと教育環境により説明できる。
 実際、劉秀のような人物はたくさんいると思う。今の日本を探しても見つかるだろう。劉秀が特殊なのはそれが支配者という地位へと導かれたことであり、個人としての特殊さではない。
 だが説明が難しい人物がある。それが禹だ。
 禹はわずか24歳にして国家最高位たる大臣となり、百万の大軍を率いて遠征するという驚くべき人物である。そしてその凄さは人を見抜くということ。
 呉漢、寇恂、賈復、銚期と、光武帝陣営の中核人物を抜擢したのはわずか24歳の禹なのである。選ばれた人たちは、みな禹より10~20ぐらい年上である。もちろん全員がその任に相応しい能力を発揮した。
 こういう人物は歴史上に存在しない。人物を見抜く達人は、必ず年齢の高く経験豊かな人物である。荀や山濤なども一定の年齢に達している。
 まさに歴史的にも真に希有な存在であるのは禹なのである。
 小説である人物を描くとは、その視点から見た世界に整合性がなければならない。禹についても、なぜ禹は人間が理解できるのか、理由がなければならない。
 すると禹に求められるのは何か?
 一つは観察力。酒の席などで語り合う中で相手の人物像を見抜くには、その一挙手一投足に目を配り、その意味を読み取らねばならない。それを正確に覚えて比較する記憶力と観察力が必要だ。
 二つは経験。これがネックになっている。若すぎる禹に経験を与えなければならない。どんなに賢くて観察力がよくても、対照するデータがなくては判断のしようがないのだ。たくさんの人物と知り合い、観察する機会を禹に与えて描かなくてはならないのだ。
 そこで考えているのが探偵的役割を与えること。名探偵こそは多様な人物を研究し、観察する存在である。それでときどき古典的小説であるシャーロック・ホームズを読んでいたりする。
 ホームズの持っていたと思われる写真記憶のような直観像を禹も持っていたと考えると面白いし、さまざまな事件に巻き込まれることで人物を知る経験ができる。
 ただホームズは論理機械のイメージで描かれているが、禹はどちらかというと情熱的で情緒豊かなタイプなので、そのあたりをどうするか。年齢も十代での活動ということになる。長安の学生探偵というわけ。
 年齢的な若さから来る失敗は、劉秀が助けてくれると設定し、天上の剣客、長安編は、禹視点で描く。新王朝末期は、殺人事件も頻発し、オカルト事件も数多い、腐敗した平和の時代である。ここに名探偵禹と実は剣客な劉秀、プラス許婚の美少女陰麗華の活躍で描く。
 ……どう見てもラノベだな。
 長安編の基本構想としては、ほとんど死人が出ない話にして、誰もが安心して楽しめるものがよい。探偵小説の基本は謎解きであり、探偵自身は常に第三者として安全圏にいるのが基本だからね。戦乱の南陽編では、凄まじいペースで人が死んでいくので、できるだけ対称的にしたいところだ。

天上の剣客/東漢光武帝記・人物分析&設定5 陰麗華

 一般に陰麗華は光武帝の妻として内助の功もあった美貌の妻ということになる。
 しかし、こういう教科書的な描き方は面白くないし、またストーリーの構成上そういう描き方はできないのだ。
 陰麗華の登場は当然、劉秀との出会うことからである。すると13歳前後という少女時代から出演することになる。そのときから賢い子どもでは面白くないし不自然である。
 郭聖通との対比という観点からも、その女性的なムードが強調されることになろう。
 また記録からわかるように陰麗華は徹底して情の人である。喜怒哀楽のはっきりした信念の人でもある。彼女は劉秀というややユーモラスで冷静な人物とは異なる視点を世界に持ち込むことになる。
 また陰麗華は、人間の成長を描くにもうってつけである。13歳で登場して、その晩年もまた劉秀とともにいた。劉秀がその死の前年に泰山に登ったとき、陰麗華と禹は相変わらず側にいて行動を共にしていた。何とほぼ40年!である。この3人は40年近くもその変転の生涯を共にしたのである。その中で陰麗華の心の成長を考えるのがなかなか面白い。
 二人の危機は、婚姻直後の別れと再会である。
 陰麗華は、大富豪のお嬢様である。対して劉秀は貧乏な元皇族に過ぎず、立場は陰麗華の方が上だった。二人の会話では陰麗華がわがままを振りまいても問題がない。
 ところが、劉秀は陰麗華を置いて河北へ赴任する。陰麗華は事実上の人質として残されるのだ。さらに劉秀は郭聖通という女性を妻にしてしまう。さらにだめ押しするように劉秀は更始帝に反旗を翻し皇帝に即位し、実質的に陰麗華を見捨ててしまう形になる。
 運良く奉らの保護のおかげで陰麗華と劉秀は再会するが、陰麗華の気持ちはどうだったろうか?
 おそらく怒りで煮えくり返っていただろう。劉秀の行動は、陰麗華の視点から見れば裏切り以外何ものでもないからだ。陰麗華は当然、劉秀にその怒りをぶつけて良いと感じているが、周囲がそれを許さない。劉秀は皇帝に即位しており、劉秀と陰麗華の力関係は逆転してしまっているのだ。しかもその横には、田舎の富豪の娘に過ぎない自分とは異なる、皇族の血を引く本物の名門の大豪族の娘郭聖通がいる!
 おそらく再会からの数年、この二人の関係は冷え切っていたと考えてよいだろう。劉秀はそうした陰麗華の気持ちまでは理解できず、ただ今まで通りの愛情で接し、困り続けただろう。そしてその限界に近づいた頃に、第三の女性、許夫人との子どもまで出来ることになる。
 この二人がどのようにして和解するようになるのかを考えるのもなかなか興味深い。
 そして和解することで、二人は新たに成長することができるのだ。
 夫婦が長くその愛情を保つことができるのは、お互いが成長するからである。成長して変化することで新しい発見があるからだ。私としては、最初の頃は完全に劉秀の手の中でわがままを振りまいていただけの陰麗華が逆に本当の意味で支える力を持ち始め、良い意味で劉秀を動かすようにすらなるという場面を描けたら面白いと思う。

天上の剣客/東漢光武帝記・人物分析&設定4 劉秀

 なぜタイトルが"天上の剣客"なのか?
 光武帝の話の問題点は、それが三国志の曹操vs劉備、楚漢の項羽と劉邦のような対称的な二人のライバルの対決という構図でないことである。
 すなわち、歴史群雄抗争ものとして描いてもそれほど面白くないのだ。
 そこで私が考えているのは、剣侠ものとして描くこと。剣士としての劉秀を描くという構想である。
 私は劉秀の剣士のとして戦いを描くことで、真の勇気というものをテーマにした小説にすることができるのではないかと思う。
 昆陽の戦いの勇戦ぶりや、皇帝になっても戦場で戦う戦士であることなどはその強さを示している。しかし、こうした実際に殺す数においても劉秀は驚異的であるが、むしろ殺さないことにおいて劉秀は真の勇気を発揮した。それは銅馬軍を降伏させたとき、軽装で巡回することで心服させ殺さずに済ませたことや、統一後は戦いを嫌って平和主義に徹したことである。
 建国の英雄は戦場から離れることができないものだ。統一したらさらに外国へと戦いを向けてしまうのだ。その史上唯一の例外が光武帝である。
 およそ戦場の勇者の価値はまさに戦うことにある。戦いを否定することは自己を否定することに他ならない。これこそ真に勇気の必要なことである。君子豹変するという。劉秀はまさに豹変を実行した人物である。
 劉秀には剣士として描く利点がたくさんある。
 若い頃、逃亡者を匿う侠客であったこと、皇帝になってからも頻繁に宮殿を抜け出していたことなどはそうした剣士の対決の物語として描いても、歴史事実を破壊しないということである。
 話のスタートは長安での学生時代と南陽での農民時代であるが、そこでは逃亡者を助ける正義の味方として描くことができる。将軍、皇帝となってからは、戦場での戦いと、付け回してくる刺客との戦いを描くことができる。特に劉秀によって滅ぼされたり、戦争に巻き込まれて死んだ人たちの復讐の刺客との激闘を描くのが面白い。いわゆる典型的な腕の立つ刺客だけでなく、色っぽい女刺客とか、復讐に生きる少年の刺客とか、あるいは息子を失った老婆の刺客とか、相当に重い種類の刺客との戦いが劉秀を待ち受ける。
 古今東西の剣士、侠客をモデルにした人物が、次々と劉秀を襲い対決するという構想である。そこではただ倒すだけでなく、歴史の悲しみの中で復讐に生きる人たちといかに和解することができるのか、帝王としてこの世の全ての責任を背負うことになった人物には、ただ強いだけではない勇気の形を示すことが求められる。
 これを描いてこそ、戦争という言葉だけでも怒り出したという、統一後の劉秀の気持ちが理解できるようになるだろう。
 ちなみに天上というのは、皇帝だからではない。小説の第一回と最終回に関する駄洒落になるように構想している。

天上の剣客/東漢光武帝記 人物分析&設定3 奉

 後漢建国期最強の将軍は誰なのか。こうした想像をする人は多いと思う。
 光武帝陣営で言えば、"人間に敵対不能な武勇の持ち主"とされる劉秀自身や、"朝飯前"の猛将賈復、無造作に強くていつも先鋒をつとめた馬武あたりが強力だ。呉漢、臧宮、銚期、陳俊あたりも相当な猛将である。
 対抗勢力で目立つのはやはり延岑。赤眉を大破したその強さは有名であり、耿弇について語るときに、延岑ほどよく戦うものですら耿弇に破れたと、引き合いに出されている。武勇の代名詞的存在だったわけだ。そしてその生涯最後の戦いでは、劣勢の中で、呉漢や臧宮と戦い何度も打ち破っている。
 だが彼らよりも最強と見なすべきなのが奉である。
 奉は晨の一族であり、本来は光武帝陣営というべき人物である。劉秀が河北に派遣されたとき、郷里の南陽で挙兵した。このとき事実上更始帝陣営のための人質として残された劉秀の新妻陰麗華を保護したのが奉である。この奉の助力があったからこそ劉秀は河北で皇帝に即位して更始帝に反旗を翻すことができたのである。
 ところが奉には悲劇が待っていた。光武帝の即位とともに陰麗華を送り、後に光武帝軍が南陽まで戻ってくると、呉漢の軍勢が南陽で略奪を働いたのである。それに怒り奉は反旗を翻した。おそらく奉の家族に相当の死傷者が出たのであろう。
 奉の強さはこのときから発揮される。光武帝からは、二十八将が次々と派遣され、圧倒的戦力差があるにもかかわらず、戦いは常に奉が優勢だった。奉は特に同盟する相手もなく、ほとんど世界のすべてが敵といってよい絶望的な展開である。もはやただ死ぬ以外に全く出口はない。ところが戦いの趨勢は、賈復は負傷し、朱祜などは捕虜になってしまうなど奉が優勢だった。おそらく数千の兵を持っていたはずの朱祜が捕虜になったり賈復が負傷するというのは異常事態であり、奉の強さの凄さを示す。
 賈復、朱祜以外に、堅鐔も奉戦の中で負傷している。また萬脩は奉戦の期間に戦場で病死している。奉戦が如何に光武帝陣営にとって打撃を与えたものであるかがわかる。
 中国には「哀兵必勝」という成語がある。これは正義の悲しみに満ちた兵士はどんなに戦力差があっても必勝であることを示す言葉だ。元は『老子』である。また決死の兵3000がいれば天下を横行できるともいう。後の時代で言えば五胡十六国時代の群雄苻堅の仇討ちを標榜した苻登の異常な強さなどもこの例であろう。
 奉の軍はまさにそういう状態にあった。ここには特別に戦のかけひきとか知略を示す記録はない。ただひたすら奉が強かったのである。
 その強さは劉秀自身をついには引き出した。雑魚を蹴散らしボスキャラである朱祜、賈復と大破し、ついにはラスボスというべき劉秀との決戦にまで持ち込んだのだ。
 この戦いは劉秀は自ら武器を取り戦っている。おそらくは戦場で奉本人を目撃して追いかけたのであろう。
 小説の展開としては、ここで当然、奉と劉秀の一騎打ちだ。本来の実力は奉の方が上という中で劉秀がどう戦うのか、考えるとなかなか面白いと思う。さらに陰麗華との関係を考えるのも面白い。なぜ奉は陰麗華を保護したのか、まさに因縁の対決というべき死闘が読者を待っている。

天上の剣客/東漢光武帝記・人物分析&設定2 董憲

 光武帝の物語の欠陥はライバル人物が弱いことである。その中で傑出した人物であり、劉秀のライバル足りうる人物だったのが董憲である。
 董憲は赤眉の名将であり、新王朝随一の猛将廉丹を討ち取った人物である。王尋を討ち取った緑林の名将劉秀、廉丹を討ち取った赤眉の名将董憲は、後漢建国期を代表する二大名将である。この二人により、新王朝の二つの大軍団がそれぞれ潰滅し、政権は崩壊へと向かう。当時、董憲と劉秀は並び称される人物だったと推測される。
 董憲は後に二十八将の一人蓋延と対決し、伏兵など巧みな用兵で翻弄して撃退している。最後に劉秀と対決するまで、ほぼ無敗の名将と考えられる。ただ劉秀のように積極的に自立して領土を拡張しようと考えなかったようだ。最後も劉永を皇帝に戴いて自らは海西王となっていた。
 小説の構想としては、董憲をヤン・ウェンリーをモデル人物に描きたい。抜群の知略と天才的な用兵で、いかなる時も勝ち続ける知将。ただ主に恵まれず不遇の生涯を送る。心優しい人物であるが個人としてはやや優柔不断、それでもとても魅力的な人物である。
 昌慮の戦いにおける劉秀と董憲の対決こそは、最高の名将同士の頂上決戦とする。その恐るべき知謀で相手の行動を的確に読み取り、完璧な用兵を見せる最高の知将董憲に対して、皇帝自ら斬り込んで戦う最強の勇将劉秀の、武勇と知略の激突として描く。
 地理とかけひきを知り尽くした董憲は、劉秀やその配下を見事に分断し、指揮系統を混乱させ、完璧な作戦勝ちをおさめる。しかし後に馬援が"人間には敵対不可能"とまで驚愕した劉秀の戦闘力のために勝ちを決めることができず、さらに分断されて連絡がなくても自主的に判断して魔術的連係プレーを見せる二十八将の動きの前に、董憲は敗れ去るのだ。そして最後は劉秀にこそ天命があることを確信し降伏を決めるが、全く常識の通じない呉漢の奇襲を受けて討ち取られてしまう。悲劇の英雄として董憲を描くのが面白いと思う。

天上の剣客/東漢光武帝記・人物分析&設定1 郭聖通

 郭聖通とその廃后問題は光武帝の物語の重大な謎である。いわゆる寵姫同士の対立とは全く異なるからだ。
 まず郭聖通と陰麗華に対立がなかった。二人の生んだ子どもたちがとても仲が良く、また二人の家族も仲が良かったのだ。二人の寵愛期間もほぼ重複している。また廃后しながらも劉秀は郭聖通に未練があるようで、その待遇に非常に気を使っている。廃后したことをとても残念がっていたことがあきらかで、できれば廃后などしたくなかったのだ。また郭聖通が劉秀に怒っていたことは記録されていても、劉秀が郭聖通に怒ったことは記録されていない。
 廃后の理由には、子どもの教育の問題が挙げられており、郭聖通は子どもを育てることにどうも適性がなかったらしい。
 郭聖通による意図的な退位ということを一つ考えているが、それとは別に、あくまでも劉秀の意志として考えるなら、郭聖通は重度の抑鬱状態もしくは病気にあり、公務に問題があったという考え方もありかもしれない。皇后というのは家庭の母親というよりは、国家の重要な大臣である。日本の天皇家での皇太子妃のノイローゼ報道などを考えても理解できよう。退位の目的を静養と考えると、その後、劉秀が郭聖通に対してずっと申し訳ない気持ちを抱いてことも理解できるし、郭聖通の短命さとも整合する。
 小説としては郭聖通と陰麗華を対称的に描くと面白い。
 郭聖通と陰麗華。まず名前が対称的だ。聖に通じるという、特別な意味と使命を持った名前に対し、麗華はただ美しさを示す。これはまず家庭の方針の違いにもとづく。陰麗華の家庭は資産家であるが地方の豪族であり、大きな野望とは関係がなかった。ただ美しく育って、いい人に嫁いで欲しいぐらいの期待のみであるということだ。そして皇后になってからも全く生活も態度も変えず、ある意味小市民的な生き方を変えなかった。陰麗華の伝記には、子の明帝が母の化粧道具を見て涙するシーンがある。陰麗華を象徴するのは、こうしたいかにも女性的な幸福に結びつくものなのである。
 対して、郭聖通は明らかに何らかの大物、聖と呼ぶに値する人物に嫁ぐことを前提としている。郭聖通は劉秀よりも早く亡くなっており、確率的に考えると劉秀よりは少し年下、陰麗華よりはかなり年上である。おそらく結婚相手を選んでいて、当時の婚期よりもかなり遅めになっていたように思われる。
 聖なる人物と結ばれることを意識していたのだから、それに相応しい教育を受けていただろう。郭聖通の母親は王族であり優れた人物として知られていたが、それは娘も同様だったと思われる。
 郭聖通をただ教養を持った人物と描くだけでなく、博覧強記の知略優れた人物として描くと面白い。もともと光武帝物語には軍師格の人物が欠如しているのでそれを埋めることもできる。
 劉秀との関係も、郭聖通が劉揚と劉秀の同盟を作るために積極的に動いたと考える。そして、劉秀と結ばれてからは、河北の豪族の詳細な情報を提供し、さらに地理天文に通じ、さまざまな助言をなす。劉秀と郭聖通の仲の良さを考えると、何らかの魅力を提示するべきだが、そこを知略において尊敬に値する人物とすることにしたい。
 こうした知謀の女性を描いてみたいのだが、歴史の人物を調べると知謀の女性というのはほとんど記録がない。歴史上の有名な女性とは、女性らしからぬ果断さで有名になったか、あるいは母として妻として男に尽くしたことで有名なった人ばかりなのだ。女性軍師、女性参謀というのがいない。
 その例外としてクリミアの天使、フローレンス・ナイチンゲールがいる。最近伝記を読んだのだが、これがとても面白い。病身のためベッドの上から男どもを動かす策士なのである。そしてその圧倒的知識と統計学に通じた計算の高さは抜群である。
 ナイチンゲールは召命意識があり、神に仕えるという考えのために自らの知略と知識を駆使した。ある種の天命を受けた存在と自らを任じていた。郭聖通の"聖に通じる"という意識とも共通性があるように思う。
 違いはナイティンゲールは結婚しなかったこと。しかし伝記を読むとナイティンゲールは英雄的な人物、特に戦場の勇士を好んでいるので、そういう人に出会うことがあれば可能性がないとは言えなかったようだ。
 郭聖通のモデル人物としてナイティンゲールを設定する。圧倒的な知識量と計量的な思考法で、裏から助言を出し続ける。穏やかな話し方と適度なユーモア感を持ち、何があっても冷静で上品、だが実は裏側ではかなり口が悪かったりする。
 問題はやはり廃后問題で、理由設定が難しい。考えていること。聖に通じるということが、皇帝の妻たる皇后になることと思っていたが、実はそうではなく、聖に通じるというのは全く別の意味であることが判明することにしたい。それはナイティンゲールが看護と衛生の改革に生涯をかけたような、何か別の高度な目的が欲しい。そしてそのために行動するには、皇后であることが障害になるようなこと、これを現在捜索中。

 宮殿を出る必要がある仕事。実地のフィールドワークが必要な仕事を考えたい。医学はパスする。耿弇と重複するので。
 個人で行動する必要があること。組織化する仕事では記録が残ってしまい、リアリティがなくなる。
 自身の知識と知能を生かせる仕事。

序章.光武帝についての予備知識(一応、本の序章を考えてみた。)

序章.光武帝についての予備知識

正義のスーパーヒーローは実在した!?
 ところでこの本は少し唐突な話題で始めようと思う。読者に質問だ。映画やアニメに描かれる正義のヒーローとはどんな人物だろうか?
 まずあまり強そうではいけない(1)。日常は気さくな人物であり(2)、周囲の人たちに親しまれていても決して怖がられたりしておらず、むしろ軽んじられている(3)。しかしいったん事件が発生すると突如その真の能力を発揮して(4)、敵を倒すのである。
 見た目は強そうではないが、よく見ると二枚目(5)でなければならない。イケメン俳優が演じるのだから当然である。もちろん戦うときの様子はとても格好良くて(6)、見ている子どもたちが真似したくなるほどでなければならない。
 格好いいのは見た目だけでなく、セリフも決まっていなければならない。後の時代にも生き続ける決め台詞をたくさん残さねばならない(7)。
 敵を倒すのだから、当然強くなければならない。人間離れした戦闘力を持つ(8)無敵のヒーローである。
 また日頃から戦ってばかりで好戦的ではいけない。むしろ他の人たちが苦戦しているところに現れて味方を救出し(9)、敵を打ち倒すのだ。ここ一番本当の強敵と戦うときは、自らの手で戦い(10)ケリをつけねばならない。美味しいところを見事にかっさらっていくのがヒーローである。
 時には強敵と戦い苦戦するが、そんな時も不敵にジョークの一つ二つ言って切り抜けなければならない(11)。戦いに泣き言は禁物だ。
 だがヒーローは戦わなければならない宿命を背負っていた(12)。望まぬ戦いの人生を送らねばならないのは逃れ得ぬ運命なのだ。
 しかし強いのは戦うときだけでなければならない。日常、特に女性や子どもたちにはむしろ弱くなければならない(13)。
 ヒーローには当然、誰もが羨むような美人のヒロインがいなければならない(14)。そのヒロインは心優しく芯の強い女性であり(15)、時にヒーローに逆らい振り回したりする(16)。男女関係では多少情けないぐらいのヒーローがよい。ヒロインとは、生涯にわたって相思相愛でなければならない(17)が、ヒーロー自身はあまり女性にモテモテであってはいけない(18)。子どもにも見せたいヒーローモノの主人公は、不自然なことだが女性にモテてはいけないのだ。
 性格は親しみやすいといっても、少しぐらいは心に影がある方がよい(19)。その影を埋めてくれる人こそヒロインだからである。
 社会背景もまた一見平和に見える時代であり、その裏が腐敗しているのがよい(20)。最初から混乱した時代では、意外性がなくつまらないものだ。
 日常は目立たず平凡に暮らしているであるから、名前も目立たない平凡な名前である(21)。ヒロインの名前もシンプルなのがよろしい(22)。ただしわかりやすいように性格や容貌をそのまま表現した名前でなければならない。(23)
 そしてヒーローの活躍によりたくさんの人命が救われ、守られなければならない。ここでは少し少な目に、一千万人以上の人命を救えばヒーローと呼んでよいこととしよう(24)。そしてどんな凄いことをしてもヒーローは威張ったり自慢したりしないし(25)、他の人たちも何もなかったかのように親しげに話しかけるのだ(26)。本能的に偉そうな奴が嫌いで、人の上に立つことを好まない平等思想の持ち主(27)こそヒーローに相応しい。
 そして戦いに勝利して世界に平和をもたらし、本人もヒロインと抱き合ってハッピーエンド(28)で終わるのだ。
 実にご都合主義の設定である。この条件を半分も満たすことのできる人物はいないだろう。実在が不可能な夢物語の設定である。
 ところがそうではなかった。この空想上の無理難題な条件(1)~(28)を一つ残らずすべてクリアーした人間がいたのだ。そう、それがこの本の主人公である光武帝こと劉秀なのである!!
 
光武帝を理想とした偉人たち
 これほど驚異的な人物であれば、当然高く評価する人たちがたくさんいる。
 まずは『三国志』の英雄たちである。
 この本を手に取った人には、同じ中国史モノとしてかなりの数の『三国志』マニアがいるはずだ。その『三国志』の英雄たちの心の中のアイドルこそ光武帝なのである。
 『三国志』の英雄たちはみな光武帝の真似をすれば天下を取れると考えていた。
 劉虞は光武帝に似ているという理由で皇帝に擁立されそうになったし、袁紹が河北から統一を目指したのは光武帝を真似たものだし、曹操が敵の文書を読まずに焼き捨てたのも光武帝の真似である。孫権は呂蒙に光武帝みたいに戦場でも本を読めといい、魯粛との関係を光武帝と禹の関係と比較したりした。
 孫策はいつも光武帝とその家臣があの若さで戦場で活躍したことに憧れていた。
 そもそも漢の復興を考える諸葛孔明が次に戦場になるのが確実な南陽などに隠棲したのは、光武帝の故郷だからである。
 さらに孔明と曹植は光武帝と家臣の論評を手紙でやりとりした。そこでは光武帝の二十八将などの家臣が有能かどうかが議題になったが、光武帝が凄いということについては疑問の余地もなく一致していた。
 『三国志』の研究者である満田剛氏は、袁紹、袁術、曹操、劉備、劉虞はみな光武帝を意識していたとしている。
 『三国志』は後漢末に始まる物語である。その時代の人々にとって人類史上最高の英雄とは後漢を建国した光武帝に他ならないのである。
 もちろんまだまだいる。
 特に有能で歴史を詳しく知る人物こそ光武帝を高く評価する。
 一人はまず司馬光である。司馬光とは北宋の時代に『資治通鑑』という歴史書を編纂した人物であり、『史記』を編纂した司馬遷と並ぶ二大歴史家である。
 司馬光はその著書で後漢論を書いている。後漢はおよそ二百年で滅ぶのだが、その後半は皇帝不在の無政府状態だった。ところがいつまでも滅びずに続いたのは光武帝の力だというのだ。光武帝があまりに凄かったためにその王朝を倒すのを誰もが嫌がったのである。そこで司馬光は、光武帝を伝説時代の聖王に匹敵する存在とした。二百年近く後の国家の盛衰まで左右したというのだから驚きである。
 二人目には岳飛を挙げよう。
 岳飛は南宋の名将であり、中国史上最高の名将と考えられている人物である。岳飛は、皇帝に親征して自ら北方の金と戦うように進言しているのだが、そのときに名前を挙げるのが光武帝なのである。戦場で戦う皇帝と言えば、真っ先に思い浮かぶのが光武帝というわけなのだ。
 三人目に中国史上最高の名君と考えられている唐の太宗李世民を挙げよう。
 李世民はその用兵において光武帝と類似した戦法を用いて天下を統一した。家臣を表彰するときは、光武帝の二十八将を参考にした二十四人を選んで祭るようにしていた。一番の腹心である房玄齢をいつも光武帝の一番の腹心である禹と比較していた。
 四人目に北宋建国の太祖趙匡胤を挙げよう。
 趙匡胤は家臣への待遇について光武帝を参考にしていた。また心を開いて本心を隠さない性格であり、光武帝の故事である「赤心を推して人の腹中に置く」を実行していた。
 歴史に詳しく政治と戦場を実体験として知る者が必ず模範とした人物、それが光武帝である。
 
時代背景
 しかしおそらく、この本を手に取った読者の多くは、光武帝なんて聞いたことがないか、名前だけしか知らないだろうと思う。そこで本文の前にいつ頃の人かざっと紹介しておこう。
 光武帝は、姓は劉、名は秀。古代中国の後漢王朝の初代皇帝である。紀元前5年1月15日生まれ、西暦57年3月29日没。西洋ではちょうどイエス・キリストと同時代だが、キリストが生没年もはっきりしないのに対して、光武帝の生没年月日は同時代に記録された公式記録である。
 古代中国の紀元前2世紀から紀元後2世紀までは、漢王朝が四百年続いたとされる。しかし実はその間に新という王朝があった。わずか20年足らずで滅ぶ短い王朝である。
 この王莽の新王朝を挟んで、それ以前の漢王朝を前漢、その後を後漢と呼ぶ。ちなみに現代中国では、前漢を西漢と呼び、後漢を東漢と呼ぶ。これは首都の位置が違っているためである。前漢の首都長安は、後漢の首都洛陽より西にある。
 この新王朝の末期から後漢の初期にかけて数十年間は群雄割拠の乱世であり、たくさんの豪傑や将軍が天下を争った。『三国志』と同じような状況と思ってよい。その中の将軍の一人が光武帝こと劉秀であり、天下を統一して王朝を開いた。劉秀はその名前の通り前漢皇帝の劉氏の一族であるので、漢王朝の復興を名目とし、自らの王朝をそのまま漢とした。
 ちなみに日本との関係でいうと、日本の古代史の謎の一つ、倭奴国王印という金印を贈ったのが光武帝である。
 この本は光武帝について史実の記録を元に解説する本である。時代は王莽の新王朝が成立する前、前漢の末期から始まる……

冗談で皇帝になった男 ― 中国五千年最強の皇帝・後漢光武帝の生涯

何とか完全に書き上げて、
どこかの出版社に持ち込もうと思います。
分量は200ページ前後になります。
かなりいい感じだと思うんですが、欲しい出版社さんありませんか?
ちなみに日本最強の書評ブロガー小飼弾氏の予約がついています。
たぶん発売と同時に書評してくれると思います。

『冗談で皇帝になった男 ― 中国五千年最強の皇帝・後漢光武帝の生涯』
(帯)
 三国志の英雄たちが最高の君主として崇める後漢建国の光武帝劉秀。その姿を『後漢書』の記述から解き明かしていくと、そこに現れたのは超ハリウッド級のスーパーヒーローだった!
 
《目次案》
序章.表はお気楽学生・裏は侠客
 三国志の英雄はみんな光武帝マニア/倭へ金印/妻を娶らば陰麗華/尚書を学ぶ劣等生/出世するなら友達も一緒にね/商人と侠客の歴史/誰もが認める見かけ倒しの男・劉秀/皇帝なんて僕でもいいんじゃね?
     
1章.王莽の宗教帝国の崩壊
 聖人か偽君子か/儒教復古主義か古代の社会主義者か/匈奴と人間グライダー/高句麗なんて下句麗だ/中国初の人体解剖
 [コラム]漢代の学問の世界・儒家と道家
 
2章.百万vs.三千・昆陽の戦い
 反政府運動の拠点・南陽劉家/自称劉邦、兄劉縯の挙兵/緑林の豪傑たち/アル中皇帝・更始帝の即位/王莽、史上最大軍団を結集する/戦力差ギネス記録・昆陽の戦い/仲間割れと家族の死
 [コラム]騎兵と歩兵・漢代の戦争
 
3章.天下大分裂・更始帝と赤眉
 徐母の挙兵/赤眉の挙兵と合流/赤眉の名将董憲、更始将軍廉丹を討ち取る/更始帝、洛陽へ/九虎将軍全滅、王莽死す/牛飼い少年、くじ引きで皇帝を引き当てる/更始帝と赤眉の激闘
 [コラム]群雄割拠の勢力図
 
4章.河北に集結する二十八星宿
 占い師は皇帝の孫・王郎/疾風のみが勁草を知る/同級生禹の訪問/政略結婚/策士寇恂の登場/最強の突騎軍団の南下/内通者の手紙を焼き捨てる/敵を倒すのは朝飯前・猛将賈復/無敵の盗賊将軍馬武/赤心を以て腹中に置く・銅馬軍の降伏/光武帝即位
 [コラム]軍師禹・天下統一のシナリオライターは24歳
 
5章.戦う超人皇帝・中原統一への道
 流浪する赤眉軍の降伏/復讐の闘将奉、光武帝を引きずり出す/河南の皇帝劉永との決戦/中原震撼・敵中を駆け抜ける超人皇帝/韓信を超えた耿弇の張歩討伐/馬成の李憲討伐・完全戦法あり/赤眉の名将董憲散る
 [コラム]医の道へ転身した無敵の名将耿弇
 
6章.去り行く英雄たち・天下統一
 周の文王を目指した隗囂/馮異と空城の計/棺で凱旋した儒将軍・祭遵/隴を得て蜀を望む/向かうところ敵なし・名将岑彭/来歙と岑彭、暗殺さる/勇士延岑の決戦・死中に活を求む/大成皇帝公孫述死す
 [コラム]敵はすべて皆殺し・戦慄の猛将呉漢
 
7章.剣を捨てる・非戦平和主義へ
 名馬名剣は兵士に/匈奴の廬芳/辺境から移住・匈奴を経済封鎖/西域も関を閉じる/ベトナム徴姉妹の挙兵/名将馬援の激闘
 [コラム]空気が読めない名将馬援=アスペルガー症候群説
 
8章.民衆が最優先・孟子型民本主義政治
 循吏と酷吏/大規模センサスと内乱/民衆こそ最優先/奴隷解放と人権宣言/徴兵制の廃止/塩と鉄の専売廃止と自由化/学問の振興/リンカーンと比べる/現代に通じる第五水準のリーダー
 [コラム]謎の兵法書『三略』と光武帝
 
9章.家族愛と友情・超ハリウッド級ハッピーエンド
 二十八宿伝説/功臣との定期宴会/予言書大好き/城を抜け出す/姉ちゃんの婿を捜せ/ひねりのあり過ぎる会話集/郭聖通と陰麗華/泰山封禅
 [コラム]劉秀、陰麗華と七夕伝説の誕生

生没年

光武帝の生没年の西暦換算を載せていたが、あれはユリウス暦らしい。
今のグレゴリオ暦だと、紀元前5年1月13日生、西暦57年3月27日没のようだ。

実在の主要登場人物の設定

~ 長安篇 ~
●劉秀
 田舎の貧乏貴族の三男。中肉中背で平凡な体格。ただし脱いだら凄い筋肉である。剣の気を観る才能があり、剣の動きを先に読み取りどんな相手にも「後の先」を取って戦い、驚異的な剣の腕を持つが、禹以外は正体を知らない。面白い話をするのが大好きで、いつもネタを考えている。人と言い争うのが嫌いで、口でうまく誤魔化してしまう。ファッションセンスに優れていて、正装したときの格好の良さは尋常なものではない。どんなときも涙を見せず、笑顔で応対する。話すことは論理的ではないが直観的に要点だけはつかんでいる。学業成績は不振だが、お金の計算だけはやたら速い。政治的なことには全く興味がない。
●禹
 長安篇ではまだ小柄な少年。南陽の裕福な豪族出身。15歳から入学する太学に13歳で飛び級で入学するほどの秀才児。抜群の観察力を持ち、一度見たもの聞いたものはすべて覚えている。情緒豊かだが論理的であり、物事を筋道立てて説明し、抜群の分析力を持つ。論理に走り過ぎて意外に抜けたところがあり、とんでもない失敗をしでかす。正義感が強く、悲憤慷慨して今の政治を憂いている。
●陰麗華
 裕福な田舎豪族の箱入り娘。長安篇ではまだローティーンの少女。豊かな髪と白い肌の正真正銘の美少女である。思いやりが深く他人の心配をすることが多い。挙動は柔らかいが自己の情緒ははっきりしており、自分が正しいと思ったことはテコでも動かず、他人に動かされることがない。親が決めた許婚の劉秀という男を見定めるべく、兄の陰識ととも長安に上京してきている。劉秀は全く自分の好みのタイプではない。
●朱祜
 劉秀の幼なじみ。剣の腕が自慢で"おとなしくて弱い"劉秀の保護者を自負している。太学での成績も良く、何事についても劉秀の兄貴分として行動している。思い込みが激しく、融通が利かない性格。
●王莽
 新王朝の皇帝。自らを孟子の言う500年後に現れる孔子の次の代の王者と確信しており、世の乱れを儒教によって正そうと邁進する。仕事中毒で理想国家の建設以外に何の欲望もなく、家族や周囲の人間を全く顧みることがない。奇妙な思いつきを行動に移そうとして周囲をしばしば困惑させる。白髪を染めているとも、禿頭なのでカツラだとも言われている。
●厳尤
 新王朝随一の知将。独自の諜報組織を持ち、新王朝の転覆を狙う反政府ゲリラたちを摘発しては闇に葬っている。国家のため冷酷非情に徹している。王莽には不満が多いものの、聖人と信じて世界を安定させようと努力する。
 
~ 南陽篇 ~
●劉縯
 劉秀の兄。劉家による漢王朝復興を狙う反政府組織に参加している。気っぷの良い親分肌の人物であるが、短気で暴れん坊として地元でも有名で、周囲の人々に恐れられている。
●劉玄
 更始帝。殺人事件を起こして逃亡し、緑林の盗賊に加わる。南陽豪族軍と緑林軍が合流すると、皇帝として即位する。酒飲みで、既にアル中気味。
●馮異
 南陽の小県の子役人。劉秀の軍隊の統率の良さに惚れ込んで、率先して降伏しその軍師となる。孫子兵法に通じる。おとなしい性格の読書人であり、人前に出るのを嫌っている。
●巨無覇
 東の果ての国からやってきた身長2メートルを超える大男。怪力かつ巨躯に似合わぬ敏捷な動きで恐るべき戦闘能力を持つ。昆陽の戦いのクライマックスシーンで劉秀と激闘を繰り広げる。
●馬武
 緑林の盗賊。殺人事件を起こして逃亡して緑林の山賊に加わる。大酒呑みでお喋りで享楽的な人物である。怪力かつ天性の武勇の持ち主だが、頭を使うのは嫌いで、直観だけで行動する。劉秀とウマが合い、会話をすると漫才化して延々と話が続き誰かが止めるまで終わらなくなる。
 
~ 河北篇 ~
●祭遵
 女性と見紛うばかりの美貌であるが、病弱で不治の病があり痩せている。剣の気を観る才能において劉秀を上回り、無駄な動きの一切ない美の極致のような剣技を見せる。負傷から回復しない劉秀にリハビリと剣術を指導する。
●呉漢
 南陽の貧しい庶民。貧民として苦労と辛酸をなめて生き、富豪や貴族に激しい敵意を持っている。吃音があり容貌も醜く、差別されて生きてきた。矢が体に刺さろうが剣を突き立てられようが顔色一つ変えない。人を殺すことに全く躊躇がなく、敵味方に関係なく家族はおろか自分の命ですら、まるでゴミクズのようにしか思っていない。この世でただ劉秀一人を崇拝している。
●郭聖通
 劉家の血筋を引く高貴かつ豊かな豪族の娘。抜群の教養と知識を持ち、知略にも優れる。河北で流浪する劉秀と、大豪族である劉揚の関係を取り持ち、劉秀の妻となり、その後も河北の豪族の切り崩しの策略を立てるなど参謀として抜群の冴えを見せる。大きな声をあげることはほとんどなく、冷静かつ論理的で、常に情より理を重んじる。女性であるがために自分の能力を生かせないことに不満を持っている。実は子どもが大の苦手。のちに陰麗華と意気投合して姉妹のように仲が良くなり、しばしば劉秀を悩ませる。
●王郎
 成帝の孫である劉子輿。宮廷の有志により救出され、民間で占い師に身をやつして生きていたが、新王朝の崩壊とともに自らの身分を明かし、河北で漢王朝の復興を狙う。
●耿弇
 北方遊牧民との国境の太守の御曹司。父と折り合いが悪い。騎馬と弓の名手。武人として戦うことが生きがいであったが、剣では人を殺すことはできても助けることできぬと悟り、医師への道へ転身する。
●賈復
 自称天下最強の超戦士。雄偉な体格と剛力で矛を奮って天下無敵の勇者だが、敵に背を向けることを知らず、負け戦でも退却することを知らず、何度も戦死しかける。
 
~ 中原篇 ~
●奉
 体格優れ、力と技とスピードを兼ね備えた後漢建国期の最強戦士。二十八将を敵にまわして戦いすべて撃退(負傷者も続出)し、劉秀を引きずり出して一対一の血戦に及ぶ。もともと劉秀が河北で戦っているときに南陽で挙兵し、人質として残されていた陰麗華を救出し、即位した劉秀の元へと送った。のちに呉漢らの河北軍が南陽に進駐時に家族が惨殺される事件が発生し、復讐のため反旗を翻す。心優しいが意志が弱く、また女性に甘く始終振り回される生涯を送る。
●終
 奉の弟。知略優れ、策略を立てて二十八将を翻弄する。また劉秀をおびき出して、兄の奉と一騎打ちに持ち込む策略を立てる。兄の死後も逃亡し、復讐のため劉秀に刺客を次々と送り続ける。
●許夫人
 陰麗華と劉秀が再会するも、仲違いしたままだったときに現れる女性。西方から来た仏教徒で顔立ちも西方系。劉秀との間の子どもだという男の子を連れて宮廷に現れ、大騒動になる。
●董憲
 元赤眉軍の名将。新王朝の大臣廉丹を討ち取り、劉秀と董憲は新朝崩壊の原因を作った二大名将とされている。知略優れ人望も厚く用兵にも巧みで、蓋延らの将軍を翻弄し撃退する。皇帝として親征する劉秀との戦いでも完璧な用兵を見せるが、劉秀の超人的戦闘力によって力ずくでひっくり返されてしまう。家族や兵卒にも愛情豊かであり、皆の命を助けるため劉秀に降伏しようとするが、呉漢に察知されて家族もろとも抹殺されしまう。
 
~ 洛陽篇 ~
●延岑
 赤眉軍を大破した名高い猛将。中原で戦いに破れてもなお蜀に逃亡して、漢王朝による統一に最後まで抵抗し続ける。戦うことが生きがいで、自らの武勇に相応しい強敵を捜して戦い続けるが、いつも謀略によって負けてしまう。伝説の勇者たる劉秀との戦いを夢に見続けていたが叶わずに呉漢に殺されてしまう。
●馬援
 武勇と知略に優れた名将。大きな目、高い鼻、白い美しい肌、長身、金髪で、まさに描けるが如き超絶美男子。目で見たものすべてを写真のようにすべて覚えている。学業は全く駄目で儒教の教典などはよくわからない。論理的で鋭利な話をするが、情緒に欠けており、他人の気持ちを推測出来ず、全く空気の読めない行動と、歯に衣を着せない話をする。先祖が謀反人であるため、歴史に名を残し名誉を回復することが生きがい。
●安丘望之
 民間に生きる放浪医師。耿弇の医術の師。人を殺す将軍という職業を毛嫌いしていたが、耿弇のたっての願いで弟子にすることを受け入れる。
 
……誰かこういうイメージでイラスト描いてくんないかな~。

光武帝年代記

 光武帝年代記にとりあえず、『資治通鑑』の文章をユニコードで入力した。疲れた。
 これを翻訳していこうと思うのだが、多すぎて正直かなり無謀な気がする。

 目的は、光武帝の出生から挙兵までの事件を正しく理解して、ネタを考えること。
 劉秀や禹の口で当時の出来事を論評させつつ、事件があれば、劉秀-禹コンビで話に参加する。正義感を持って無辜の人たちを助けようと努力する禹に、しぶしぶついて来る劉秀。もちろん、劉秀はいざとなれば強いので用心棒みたいな扱い。劉秀は実際に逃亡者を匿っていたから、これはそのまま史実みたいなもの。
 劉秀は「長安学生編」では事実上無敵モードなので、やられる心配は0だが、禹以外には正体を隠しているので、ちょっと話がややこしい。みんなのいるところでは弱いふりをして倒すという驚異の技を発揮する。あるいはやられたふりをして、その場を去り別人に扮装して倒す。長安に出没する謎の黒衣の剣士とは劉秀だったのだ。ただし噂ではあの黒衣の剣士は劉子輿という評判である。
 もちろん事件が解決したら、劉秀お得意の駄洒落を一句出して話を締めくくる。
プロフィール

akira080227

Author:akira080227
Darwinism Psychology
光武帝と建武二十八宿伝
新書中心主義
電脳書庫(affiliate 本棚)
感情の系統図&意識の回路図

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
FC2カウンター2
現在の閲覧者数:
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。