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謎の一つ

 光武帝が結果的に自殺するように追い詰めてしまった韓歆。直言の士として知られ、言葉に遠慮がなかったというけど、それでも光武帝が怒るのは謎。 司馬光も不思議がっている。
 後漢書にある記述ではとても光武帝がそこまで怒るとは思えず、何か特別なことを言ってしまったのかもしれない。
 考えられるのは、兄の劉縯の名誉にかかわることか。劉秀にとって劉縯の話題は決して触れてはいけない部分だと考えられるからだ。本来、天下のことを始めたのは劉縯であるが、といって劉縯の子孫に権限を返すわけにもいかない。さらに自分が兄を支え守るつもりが失敗したという経緯もある。
 こういう微妙な話題が韓歆の言葉に含まれていても、史官は見落とした可能性がある。劉秀は言葉がもともとひねくれている上に、触れたくない話題であるからそれを直接指摘しないはずだからだ。
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儒家史観と共産史観

 儒家史観と共産史観に毒されている限り光武帝の実像は見えない。
 前漢、後漢ともに豪族の成長して民衆を圧迫していくとされるが、これこそ儒家史観の資料記述に基づいた共産史観の解釈である。
 この民衆圧迫の実態は、政府に取られたのが豪族に取られるように方向が変わったということである。政府の強さを考える儒家史観では、それをネガティヴにとらえるわけだ。
 実際の統計人口では前漢、後漢ともにその後半期に人口のピークがある。すなわち豪族が成長した世界こそ国家の経済が最も繁栄した状態ということだ。豪族とは、地域に根ざした勢力であるので、政府のような根こそぎの搾取はしないし、問題に対する対応も早い。
 また豪族は決して不法なヤクザ集団ではない。彼らの多くは県などの父老をつとめる、地方自治体のお役人である。政府の支配が弱まり豪族の支配が強まるというのは、地方分権ということでもあるのだ。

 新末の農民反乱、赤眉、銅馬、緑林などが発生したとき、豪族たちは恐怖し、団結して自立した。それが新末の群雄割拠の実態である。すなわち新末後漢初の群雄のほとんどは豪族連合政権であった。
 その中で明白に毛色が違うのが河北で自立した劉秀、光武帝である。
 光武帝の勢力はどういう構成だったか?

1.南陽から従うお役人。王覇、馬成など身一つで従ったものが多い。もちろん豪族出身もいるが、部下はほとんどなく、豪族としてではなく、能吏としてその力を発揮した。
2.河北で劉秀を迎え入れた豪族。これはまさにその豪族としての勢力で劉秀を支えた。ただし河北の豪族のほとんどは劉秀でなく王郎を支持したので、そのあまりの豪族である。
3.上谷と漁陽の突騎部隊。これこそが建国の主戦力であり、軍の中核である。これも豪族というより、軍人集団である。
4.銅馬の降兵。光武帝の兵員のほとんどは銅馬の降兵である。後に赤眉も降伏させてその兵員も組み入れている。光武帝の兵力のほとんどは銅馬と赤眉という農民反乱集団で構成されているのだ。

 どう見ても豪族によって支えられた集団などではない。南陽能吏、河北豪族、突騎部隊、農民兵団の連合政権なのだ。
 対してその他の群雄は、ほとんどが豪族連合政権である。そのため自分たちの利権にあわない光武帝政権と相容れることはとうていできず徹底抗戦することになる。光武帝はその統一の過程で、中国全土を火の海としてすさまじい戦乱の統一を成し遂げたが、それも光武帝が理想主義に走って豪族との妥協をしなかったためなのである。
 王莽はもちろん劉秀も理想主義者であり、だからこそ問題になった。劉秀が王莽と違い成功したのは、現実主義者だったからではなく、実力があったからだ。王莽が虚名の力だったのに対して、劉秀はその豪腕でねじ伏せたのである。
 だから、しばしば"光武帝が豪族と妥協した"とネガティヴに語るのは事実とは全くの正反対である。光武帝は豪族と妥協せず中国全土を焦土にしてしまったことをネガティヴに語るべきなのだ。

 光武帝の権力は圧倒的だった。それは漢の武帝や秦の始皇帝すらしのぐものである。光武帝は軍人あがりで直接武力を持っているのだから当然である。家臣を粛清しなかったのは、ただその必要がなかったからである。主要な功臣は自分から引退しているし、そもそも皇帝を脅かすような功臣はいなかった。なぜなら皇帝たる光武帝こそが最強の功臣だからである。劉邦にとっての韓信のような、皇帝を脅かす存在はいないのだ。
 光武帝は統一後も皇帝に直属する部隊を維持していた。さらに大臣の権力を排除して、徹底して自分が指示を出し、皇帝の完全一元支配体制を作った。塩や鉄の専売を廃止し、材官騎士を廃止し、国家の民衆経済の干渉を最小限にした。
 光武帝、明帝、章帝とすべて長男でないことは重要だ。すべて当時の言葉でいう儒教――すなわち学問に優れた人物が皇帝となった。賢人皇帝の支配による自由経済社会こそが後漢の特徴である。
 だがこの体制の限界は、皇帝の能力に依存しているということだ。皇帝にすべての権力があるため、皇帝が無能だと国家は無政府状態になってしまう。
 結果、宦官と外戚の抗争により後漢は倒壊するが、これも後漢は皇帝にすべてを依存する体制だったためだ。宦官は皇帝の側近であるから力があるし、外戚は皇帝の親族であるから力がある。決して豪族だからではない。豪族には政権を左右する力がなかった。もしあれば、党固の禁など起きないだろう。学生運動の半数は豪族出身者である。豪族が弱かったから、党固で敗北したのだ。

 まとめると、
1.そもそも豪族には政権を争うような力はない。
2.豪族による民衆の囲い込みは経済発展による必然的なもので、また国家支配ほど過酷ではない。
3.光武帝も王莽も理想を追い過ぎて失敗した。
4.光武帝の建国において豪族の寄与は少ない。

※南陽で成立した更始帝政権と、河北で成立した光武帝政権の性質の違いを無視して混同しているのが、豪族連合政権という発想なのだと思う。

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光武帝はただ光武帝のみが超えることができる

 後漢王朝の人口は9世紀以前では最大であり、史上最も繁栄した古代王朝であった。そしてそれを初めて超えた王朝が900年後の趙匡胤の建国した北宋である。
 趙匡胤とはどのような人物か?
 本来、皇帝になる人物ではなく、将軍として活躍した。武勇優れ、常に陣頭で指揮して戦う勇将であり、建国後も部下に寛容であり、将軍を粛清しなかった。その行動や能力は光武帝にそっくりである。そして常に"赤心を推して人の腹中に置く"という光武帝の故事を心掛けていた人物である。
 すなわち、900年の時を経て光武帝の後漢を超える王朝を建てた男とは、まさに光武帝の再来であった。光武帝を超えたのもまた光武帝であったのである。

 趙匡胤の皇后を調べると、賀皇后が男児三人女児二人を生んで30歳で没。
 次に王皇后が立つも、女児が三人早死にして22歳で没。
 最後に宋皇后が立つも子はなく、44歳で没。
 三人とも従順なおとなしい女性だったようだ。特におもしろいロマンスもなし。みんな早死にだし……

ハードディスク壊れた

パラレルなのに、電源2重差ししてて、気づかずに三年も使い、ついにストップ。
よく見ると、英語で、"電源二つ差したら何が起こるかわかりませんぜ!"と書いてある。

Warning : It is recomended to use either the SATA power connector or the Legacy power connector.
Using both the SATA power connector and Legacy power connector may cause unpredictable results.

英語勉強しないとあきませんね。
新しく買い換えたら、500ギガになってしまった。こんなに容量あっても使い道ないぞ。
設定のし直しとか疲れた……
でも以前の不具合も解消したし、なんだか速くなったのは嬉しい。

光武帝と親友

 劉秀の親友というとまず思いつくのは禹である。しかし禹と劉秀は意外にエビソートが少ない。太学時代仲が良かったが、そのときのエピソードも残っていない。
 また考えると年齢が少し離れているのも気になる。7つも年下だと、いわゆる親友関係というイメージになりにくい。兄弟的な仲の良さの方がイメージしやすい。弟のいない劉秀にとっての弟分というイメージか。
 個人的な関係を示すエピソードが一番多いのが朱祜である。こちらは遠縁ではあるが親戚でもある。その言動を見ると劉秀よりも劉縯と仲が良かったようにも思える。年齢的にも劉秀より少し年上と思われるので、こちらは逆に劉秀を弟分のように見ていたのかもしれない。
 どちらにしても劉秀は誰とも平等に付き合うタイプであるから、親友であるのはそれほど不思議ではないが、無二の親友というイメージとも少し違うのだ。禹も朱祜も家族的な仲の良さなのだ。
 私の考える無二の親友のイメージは、銀河英雄伝説のラインハルトとキルヒアイスのような感じ。ほぼ同年齢であること、そしてある種の疑似恋愛関係を思わせるような人物。
 劉秀の場合のそれは、祭遵である。祭遵はその言動から見て劉秀とほぼ同世代である。そして何より劉秀の祭遵への思いが何か特殊であるということだ。祭遵の死に際しての悲しみ方があまりに異常だということ。涙をほとんど人に見せたことがない劉秀が臆面もなく泣き崩れたのが唯一祭遵なのである。その死後もいつまでも思い出すたびに悲しみ惜しんだという。
 祭遵はその柔らかな物腰と、病弱さ、そして容貌や立ち振る舞いから選ばれ、後に劉秀の軍の軍紀粛清係を務めさらに、将軍として活躍するが、それでも他の将軍に比べて功績が多いとは言えない。その哀惜はあまりにも不自然である。ここには確かにある種の恋愛関係を思わせるものがある。
 祭遵が劉秀に残したもの。兵士への教育という祭遵の考え方は劉秀に影響を与えたと思う。近衛兵に孝経を学ばせるようになったのも、祭遵の影響ではないかと思う。

 私の考える劉秀の行動の謎は3つある。一つ目は、剛直の士韓歆を死に追いやったこと、二つ目は郭聖通はなぜ廃后されなければならなかったのか、3つ目はなぜ祭遵についてこれほど悲しまなければならないのか。
 これらは小説化するならば必ず答えるべき謎であると思う。

後漢の人口

 後漢の統計人口は前漢よりも少しだけ少ない。前漢の前2年に5959万人、後漢157年は5648万人。それでも唐の4600万人よりは多い。
 ローマ帝国で5400万人ぐらいと多く見積もる人がいるが、1000万ぐらいという人もいる。
 宋の時代は1080年に9000万人に到達した。
 そして問題は後漢の人口統計である。
 流民の多さと豪族に囲われた戸籍外人口がどのぐらいか。後漢は他の時代に比較してこの戸籍外人口が非常に多かったと考えられているからだ。史書には流民の記録が非常に多く、さらに部曲という豪族内の人口がある。董卓の遷都のときの数百万という洛陽人口など戸籍人口からは全く一致しない。
 仮に戸籍人口の2割が記録から外れているとしても、実人口は7000万近くになる。私はこの人口数が実際に近いと考えている。すると、後漢王朝は後に北宋に抜かれるまで、人口の最高記録の王朝ということだ。後漢王朝はその後900年間、世界史上において、超えることができないほど経済的に繁栄した王朝だったのである。

 三国志があまりにもひどい乱世なのは、後漢末の人口が中国の生産量に相応しくないほどに過剰になっていたことが一因なのではないかと思う。
プロフィール

akira080227

Author:akira080227
Darwinism Psychology
光武帝と建武二十八宿伝
新書中心主義
電脳書庫(affiliate 本棚)
感情の系統図&意識の回路図

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