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光武帝の古典的理解の一例を発見してしまった……

風篁楼:趣味の東アジア史抄事典/東漢 光武帝

これはない。一体、何十年前に書かれた本を参考にしているのか?昔の解説書は原典を読まずに適当に書かれているのに、それをそのまま鵜呑みにしたらしい。後漢に関してはWikiの方が遙かに正確。一昔前の光武帝の解説は共産主義思想の影響で悪の地主階級(笑)という前提を持って『資治通鑑』や『十八史略』の表面の文字を裏読みして書かれていることが多く、『後漢書』すらまともに読んでないんだよね。

> 豪族の自給的荘園経営が伸長したことで大規模な広域交易が衰え、賦税の布帛納化や俸禄の半銭半穀化など、貨幣経済から実物経済への後退が進んだ。

実際の経済流通量は前漢より後漢の方が圧倒的に多いと言われている。そもそも前漢の貨幣経済はそれほど発展していなかった。実物経済と言っても、その実物もちゃんと貨幣として使えるように規格化されていた。後漢は農業を捨てて商業に走る人が多すぎて社会問題になったと『潜夫論』で指摘されるほどなのだ。後漢の経済後退という宮崎市定の説を今も真に受けている研究者はほとんどいないと思う。

> 謹直な為人りは兄の劉縯から、高祖の兄の劉仲に比せられた。

農業に熱心なのを馬鹿にされた。褒められたわけではない。

> 軍事の縮小は匈奴への劣勢となって15年(39)に幽州・幷州の北部を放棄し、

戦乱で放置されていた内地に住民を移住させたもので、軍隊は駐留しているのだから、放棄とは言えない。

> 21年(45)には西域都護復置の要請に応じずに匈奴の西域支配をもたらし、

これは歴史的には外征より内政を重んじた非常に賢明な判断と賞賛されていたが、現代中国にウイグル問題があるため西域放棄を非難されるようになったもの。

> 宣帝以来の快挙とされた22年(46)の日逐王の来降も、積極的には利用しなかった。

日逐王の降伏について家臣の多くは虚偽を疑いあるいは国内の疲弊を考えて拒絶せよという意見が多かったが、光武帝は耿国の意見に従って日逐王を南単于として受け入れた。このため北匈奴、烏桓、鮮卑などの心配がなくなり、国境が安定したと賞賛されている。積極的に利用しかなかったという非難は、匈奴に攻勢を掛けなかったことだが、ここにも現代中国の領土問題が反映されているのである。

> 又た大姓・外戚と官吏との癒着が既に進行し、

進行したのは章帝の頃で光武帝の頃ではなかった。光武帝と明帝の頃の大姓外戚に対する弾圧は強力で、酷吏も多くむしろ逆の意味で反対されていたのである。

> 近代になって称賛される奴隷解放令も、発令が頻繁なことから実効性は疑問視される。

これは実に初歩的な間違い。奴婢解放令は光武帝即位の初期、領土が小さなときから出ており、新しい領土を平定するたびに解放令を出していた。解放令なのだから、自国内にしか効果はなく、領土を拡大するたびに出さざるを得ないのは当然のこと。

> 「官になるなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」とは劉秀に因んだ謡言で、即位後も「執金吾になれればそれでよかったのだ」と述懐したという。

即位後にそれを言った記録はない。これは『三国志』の曹操の晩年の回顧談と混同したものと思われる。

> 職事には厳酷で、韓歆・欧陽歙のような潁川以来の譜代でも刑戮を免れず、

韓歆、欧陽歙ともに更始帝からの降伏組で譜代などではない。おそらく原典の解説書は劉秀が潁川にいたときに帰参した人たちと誤解している。韓歆は王郎平定の後に河内郡に進出したときに更始帝から降伏、欧陽歙は河北平定後に河南郡に進出したときに更始帝から降伏したもの。南陽や潁川出身の家臣団には、光武帝の旧臣と更始帝からの投降組があるのだが、昔の本はこの区別ができていなかったのだ。二人とも広大な土地を持つ大豪族であり、全国土地人口調査(度田)に反対、あるいは妨害したための処罰と見られている。
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