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光武帝の陵墓について

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/53.htm に追記

光武帝の陵墓について
 建武二十六年(西暦50年)、皇帝の制度に従って、生前より陵墓を作ることになった。劉秀は、
「古代の皇帝の埋葬は、瓦や陶器に木の車や茅の馬だけであったので、後の人はどこに埋葬したのかわからなかった。文帝はそのことをよく理解していた、また息子の景帝も孝行の道に従ってそのように薄葬にしたので、天下が大乱になっても、文帝の覇陵だけは盗掘に遭わなかったが、素晴らしいことではないか。私の陵墓も広さは二、三頃とし、墳丘も作らず池を作って水を流せば十分である」
 と述べた。こうして水を引くために川辺に陵墓が作られたのである。
 実は光武帝陵には論争がある。現在、公式に光武帝陵と見なされているものは、北魏孝文帝のときの祭壇であるという説があるのだ。塩沢裕仁は、桓帝陵とされる劉家井大墓こそ光武帝陵であるという。『水経注』の記載に一致するのは劉家井大墓であるとする。
 三国魏の文帝の曹丕によると、明帝が豪華な陵墓にしたため、光武帝陵は董卓の盗掘にあったとされている。
 しかし盧弼の『三国志集解』は、董卓が諸陵を盗掘したが光武帝の原陵は手つかずのままなのは薄葬したおかげとしている。
 『後漢紀』によると、章帝が光武帝陵や明帝陵に国を設置しようとしたが、東平王劉蒼に諫められて中止したとある。そこで劉蒼は「光武帝は率先して倹約しすべてに古代の制度に従って陵墓を作り、明帝は孝行で父の言葉を守り何も追加しなかった」と述べている。明帝の死後の発言である。このことから明帝が光武帝陵を豪華にしたという曹丕の言葉は、おそらく他の皇帝の陵墓と勘違いしたのだと思われる。
 公式認定されている光武帝陵には、北魏孝文帝祭壇説があることから、盗掘の跡がないとわかる。盗掘の跡があれば祭壇説は消滅するはずだからである。また桓帝陵とされる劉家井大墓は、完全に盗掘に遭っていると考えてよいだろう。
 どちらが正しいのかは確定できないものの、やはり公式の光武帝陵が有力なのではないかと思う。皇后の陰麗華は60歳で永平七年(西暦64年)に亡くなり、光武帝陵である原陵に合葬された。二人は今も同じ墓で、盗掘に悩まされることなく安らかに眠っているのかもしれない。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/50.htm に追記。
軍事史の革命家としての劉秀
(略)
 ただし劉秀は他の名将に比較して、敵を殺さないところに特徴がある。例えば、戦国時代の名将白起は百五十万人近くを破り、そのうち約百万人を殺しているが、対して劉秀は、二百万の十分の一程度の二十万人が戦場で戦死したと見られるものの、半数の百万人は降伏させて、自軍に編入したり帰農させているのである。一人の将軍が降伏させた総数の人類史上の世界記録であるのは疑いようがない。
 これは劉秀は、兵力が少ないことから包囲殲滅線をやらずに、敵を疲労させて降伏に持ち込むのを基本にしていたからである。城攻めにおいても力攻めは決してせず、相手の内応があるまで攻撃しないなど、敵味方の人命損失を最小にすべく注意していたのである。天下を治める皇帝として敵兵もまた自分の臣民であると考えていたからである。

http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/46.htm に追記。
その美貌は描けるが如し
(略)
 これらの記述は馬援伝において、馬援が五銖銭の再鋳造の提言が実行された後に書かれている。五銖銭の再鋳造は建武十六年(西暦40年)のことで、馬援はこのとき53歳である。中年でありながらこの美貌を保っていたということである。
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