スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

更新一覧

各ページに追記と修正

呉漢
 呉漢(二十八星宿の二位)は字を子顔、南陽宛の人である。血縁に有力者もなく、口下手で、容貌も醜くあまり才能がありそうにも見えなかった。しかし努力家であり学問に励み、文字を覚えて役人になる資格を得たが、貧であったために亭長になったと記録される。
 この時代、文書を扱う役人になるには文字をたくさん知っていることが条件であり、資格試験を受けて合格する必要があった。さらにもう一つ財産による制限があった。資産が四千銭以上なくては役人とはなれず、また役人として在任中も資産が四千銭を切ってしまうと失職してしまうのである。役人として仕事に使う車馬や服装は自分で用意しなければならないからである。そのため資産が四千銭ない者を貧と呼ぶのである。
 その資産制限の例外の役職が亭長という仕事である。亭長とは警察の末端の役人であり、とても危険な職業として忌避されて志望者が少ないため、財産制限がなかったのである。それで呉漢は亭長となったのである。

●劉秀に対する絶対の信頼
 呉漢と劉秀の信頼関係は、通常の常識を越えたものであった。
 劉秀の生涯唯一の敗戦である順水の戦いは、実は先鋒の呉漢が深入りしすぎたための敗戦であった。このとき劉秀は呉漢を自ら救出に出陣し、呉漢に先に帰って敗軍をまとめるように指示した。ところが敵の勢いが凄く、劉秀をもってしても止めることができなかったのである。
 このとき呉漢は帰陣したが、耿弇、馬武らは劉秀の指示に逆らい戦場に残っている。常識的に考えれば、耿弇、馬武の行動こそが忠義である。君主を最前線に残して逃げる家臣など忠義とは言えまい。
 さらにその後の呉漢の行動が凄い。
 最前線に君主たる劉秀が残りいつまでも帰ってこないため、兵士のなかで劉秀は既に戦死したのだという噂が広まり、逃げ散りそうになった。このとき呉漢は、
「蕭王(劉秀)の兄の子が南陽にいるから連れてくればよい。主がなくなる心配はないぞ!」
 と、宣言して、この動揺を収め、無事に軍をまとめたのである。劉秀が死んでも関係ないと宣言したのであるから、ほとんど謀反といってもよい暴言である。しかもそもそもこの敗戦の原因は呉漢なのである。まともな神経の人間にはこんな発言はできないだろう。しかしこの発言は、二人の関係に何ら影響しなかったのである。
 また建武十七年(西暦41年)、劉秀が病気で倒れ、首から下が麻痺し身動きができなくなったことがあった。このとき、劉秀は何を思ったか、南陽へ行くと言い出し、俺を車に乗せて南陽へ運べという。
 もちろんこの重病の皇帝を見て、皇帝の体を動かそうする人間はいなかった。医師はみな動かせば死んでしまうかもしれないと震え上がった。ところがこのとき大司馬呉漢は、ちゅうちょなく劉秀を抱えて車に運び南陽に向かったのである。
 もし劉秀がこのために死ねば、呉漢は皇帝殺人犯になってしまうという実に恐ろしい状況であったが、呉漢は全く一顧だにしかなったのである。
 これでわかるのは、呉漢は劉秀のことを文字通り完璧に信頼しており、それがどんなに恐ろしいことでも、劉秀の言葉に誤りなど有り得ないと信じていたということである。すなわち劉秀の考えは自分の理解を超えており、どんなに間違って見えても正しいと確信していたのだ。
 劉秀がかつて彭寵遠征に出陣したのに、すぐに帰還したことがあった。このとき誰にも理由が理解できなかったが、呉漢は、
「陛下は兵法を知り尽くしている。帰るには必ずわけがある」
 と述べている。理由がわからなくても劉秀の言葉は絶対だというのである。呉漢にとって劉秀は神に等しいほどの存在であったとわかる。

賈復
●恐るべき生命力の男
 賈復の驚くべきなのは、その肉体的な快復力である。
 眞定で五校と戦って、瀕死の重傷を負ったのが、建武元年の始めの頃。その後、五月には劉秀軍に合流して、七月には洛陽攻めで先鋒となり攻撃している。回復までおよそ半年である。
 建武二年の秋には鄧奉と戦って重傷を負っている。しかし翌年の四月、鄧奉への戦いには復帰して劉秀とともに敵に突入している。こちらも回復までおよそ半年。
 死ぬほどの重傷も半年あれば全快してしまうのが賈復である。
 これほど命知らずで負傷が多ければ、早死にするのが常識である。
 ところが賈復の没年は劉秀より一年早いだけの西暦55年である。賈復は、その経歴や劉秀の賈復に対する尊称から、同世代ではなく五~十歳は年上と考えられることから、没年は七十歳前後とわかる。
 賈復は全身傷だらけで、大きな刀傷だけで十二もあった。さらに二度の瀕死の重傷を受けてなお当時は極めてまれな年齢である七十歳にまで到達した賈復、その生命力は驚くべきものがある。

岑彭
●不器用な努力の名将
 岑彭の生涯は、決して順風ではなかった。岑彭が運命の君主である光武帝に仕えるまで、甄阜、厳説、劉縯、朱鮪、韓歆とめまぐるしく主を変えている。今の主のために常に誠実であったため、なかなか劉秀に到達することができなかった。
 蜀の討伐では神と称えられるほどの用兵を見せた岑彭であるが、戦いはやや不器用であり、戦いの緒戦では失敗していることが多い。
 鄧奉との戦いでは敵の数倍の九万の兵力をもってしても破ることができず、むしろ朱祜を生け捕られ、賈復が負傷するなど、さんざんな目に遭っている。光武帝は自ら遠征して鄧奉を倒すが、そのときに先鋒として再起用され敵を打ち破ることに成功している。
 秦豊との戦いでは、なかなか攻撃しないところを光武帝に注意されてから敵を破っているし、その後、敵を捕虜にせず皆殺しにしたことから、秦豊戦から解任されてしまっている。しかし後の蜀討伐では圧倒的な軍紀の高さで、無用な命を一切奪うことがなかった。
 蜀との戦いにおいても、緒戦ではむしろ敗戦が続いて荊州の領土を一部奪われている。その結果、水軍を養成することの重要性を認識し、蜀討伐戦で一気にその実力を発揮したのである。
 どんなに失敗しても、その中から学び取ることで、一歩一歩本物の名将へとステップアップしていったことがわかるのである。
 岑彭は悲劇的な最後を迎えるが、ある意味、不器用な男らしい最後であったと言えるかもしれない。

38.公孫述の滅亡
公孫述の国力は三国志の魏に匹敵するほど強大だった
 どうして公孫述は徹底抗戦したのか。そこには国力差が意外に少なかったことがあげられる。
 領土という観点から言えば、公孫述は益州の一州に過ぎず、天下十三州の残りをすべて平定している劉秀と比べれば、12:1となり全く勝負にならないように見える。しかし問題は領土の広さと国力には大きな違いがあることだ。
 漢書の地理志の人口数によると益州の人口はおよそ五百万人である。ただし益州郡は新の時代に長期の戦いがあり、人口が減ったと考えられる。しかしその他の地域では戦乱は公孫述の手腕により早期解決しており、人口減はなかったと考えられる。逆に、田戎、延岑など中原からの逃亡軍団が多数あり、ともなう難民の流入などを考えると人口は増加したとも考えられる。
 難民の流入による人口変動の例としては隗囂軍が挙げられる。天水の統計人口の数倍の兵力を擁していたが、その人口のほとんどが長安からの避難民から形成されているからである。これは赤眉、銅馬などが固定した領土なしに百万近いのと同じ原理である。
 従って、公孫述の成蜀の人口は三百万以上、五百万以下と見てよいだろう。
 対して、劉秀が後漢を統一した時の人口は千五百万人と推定されている。ここから成蜀の人口を引くと、劉秀の後漢の人口は千二百万から一千万人ということになる。
 すなわち、後漢vs.成蜀の国力差は、およそ2倍から4倍となり、領土差ほど圧倒しているわけではないことがわかる。ここに隗囂の隴西が加われば、更に差が縮まり、公孫述の野心が簡単に消えない理由もわかるだろう。
 劉秀の領土が広さに対して人口が少ないのは、その領土が緑林、赤眉、銅馬が暴れ回った地域そのものであり、土地が荒廃しきっていたからである。それに対し、公孫述の領土はいち早く貨幣流通にも成功し、その豊かさで知られていた。
 ちなみに三国志の魏の人口は四百四十三万人という記録があるから、公孫述の勢力は三国志の曹操に匹敵するものと言えるのである。
 
最後の強敵としての公孫述
 公孫述は、軍事においても規律の高い軍隊を作って鮮やかに蜀を統一したし、後の隗囂を援護する戦いでもたびたび謀略を駆使して、後漢軍を苦しめている。策士としての第一級の人物である。
 最後の戦いでも、既に六十を越える年齢でありながら、自ら馬上の人となり武器を取って前線で戦っている。相当な勇将と考えられる。
 公孫述はこそは、劉秀の建国物語の最後の強敵として描くにふさわしい人物である。ちょうど性格も劉秀と正反対であり、自分の信じる正義のために無実の人間を犠牲にすることをいとわない冷酷さを持っている。三国志演義における曹操に似た人物なのである。
 公孫述が低く評価される最大の原因は、馬援の「井の底の蛙」の評である。しかしこれも小説ならば、特別な解釈も可能であろう。すなわち、馬援は本当は刺客であり劉秀を暗殺するために面会したと考えるのである。
 暗殺のために劉秀と護衛なしに対面する、そのための芝居が馬援と公孫述の面会の様子と考えるのだ。馬援が護衛をぎっしり並べた宮殿で公孫述と面会し、それを馬鹿にして「井の底の蛙」と言ってから劉秀に会いに行けば、劉秀は当然、公孫述と逆の対応をすることになる。暗殺には絶好の機会を作ることができるのだ。
 そもそも馬援と公孫述は同郷の幼なじみであり、特別な関係なのであるから、こうした想定は決して荒唐無稽ではないと思う。

20.赤心を推して人の腹中に置く
銅馬戦の長い戦い
 援軍を得た劉秀はここから持久戦に変更する。銅馬軍はたびたび挑発してきたが、劉秀軍は堅く自らの陣営を守った。そして銅馬の兵士が食料を集めようとすると、ただちに攻撃して奪い、その糧道を断った。
 これに対して劉秀軍には常山へ帰っていた常山太守鄧晨から、精鋭の弓手千人が合流した。常山郡からは劉秀軍への物資補給が絶えず送られてきた。
 一月と数日たつと、銅馬軍は食料が尽き、夜に逃げ去った。劉秀は全面攻勢に出た。耿弇が精騎を率いて軍の先鋒となり敵を撃ち破り敗走させた。さらに魏郡館陶まで追いかけて撃破するも、今度は、高湖と重連(二つとも農民反乱軍の名称)が東南からやって来て銅馬軍と合流した。劉秀はふたたび蒲陽で大いに戦い、ことごとく打ち破って降服させた。
 さてここで注意したいことがある。それは銅馬戦における戦場の広さである。
 銅馬の最初の戦いの地点から地図を追っていこう。するとわかるのは想像以上に広い範囲で戦っていることである。清陽、博平、魏郡館陶、蒲陽と戦場が移動している。清陽は冀州だが博平は兗州で黄河沿いで、館陶はその50kmほど西南であるが、蒲陽は中山国の北部にあり、北の幽州との境界沿いであり、 270kmも離れている。ほぼ冀州全域を追い回すように戦っていたことがわかる。おそらく劉秀は、銅馬軍を殲滅する意図はなく、徹底的に追い回すことで戦意を喪失させて降伏させることを狙っていたのではないかと思われる。
スポンサーサイト
プロフィール

akira080227

Author:akira080227
Darwinism Psychology
光武帝と建武二十八宿伝
新書中心主義
電脳書庫(affiliate 本棚)
感情の系統図&意識の回路図

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
FC2カウンター2
現在の閲覧者数:
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。