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天上の剣客/東漢光武帝記・人物分析&設定7 王郎

●王郎は偽者か?
 劉秀が河北へ赴任して最初に対決するのが王郎である。
 王郎は趙国邯鄲の人である。もともと占い師で天文に明るく河北には天子の気があると言っていた。趙王劉林らと仲が良かった。
 王莽が即位したとき、長安には成帝の子の子輿と名乗るものがいて、王莽に殺された。王郎は自分こそが本物の子輿であると言った。
 母は成帝のお抱え歌手であり子を身籠もった。皇后の趙飛燕が殺そうとしたので、偽の子どもと取り替えたので助かった。十二歳の郎中の李曼卿とともに蜀に行き、十七歳で丹陽、二十歳で長安に帰った。さらに中山を転々として燕、趙を往来して天命を待っていたという。
 さて本当に詐称と考えて良いのだろうか?
 単なる詐欺にしてはあまりに信じる人が多すぎるのが気になる。小説的にはむしろ真実と考えて、劉氏の正統として本気で天子になろうと考えた方が面白い。
 王郎が降伏しようとしたとき、使者となった杜威はなおも王郎は成帝の孫であると言い張った。さらに万戸侯に封じて欲しいと述べた。劉秀のセリフはかなり強烈で、
「かりに成帝が生き返っても天下を取ることはできぬ。ましてニセ子輿では」
 と言い捨て、
「ただ命を助けてやるだけだ」
 と要求をはねのけた。
 こうした記述を見ると、実際に王郎が劉子輿である可能性はあるように思う。
 流浪する皇族の怨念のようなものを描くと面白いかもしれない。
 
●王郎の勢力
 王郎はどんな陣営だったか。
 本拠地は邯鄲である。更始元年十二月に即位した。
 皇帝王郎だが劉郎と名乗ったのだろうか?
 丞相劉林、大司馬李育、大将軍張参。李育は禹や朱浮を破ったことがある。
 鉅鹿の太守王饒は一月あまり攻撃に耐えて手強いので放置されている。
 倪宏はかつて光武帝軍に突入してその太鼓を奪った猛将である。またその同僚に劉奉という将軍がいて、数万を率いていた。
 突騎が南下して王郎軍を蹴散らしたとき、斬首三万とある。
 王郎軍の総兵力は10~20万といったところだろう。
 
●王郎の支持基盤
 彼らの即位は赤眉が黄河を渡り恐怖したためである。王郎の挙兵は農民反乱に恐怖した豪族の抵抗と見ることができる。
 首謀者は趙王劉林と趙国の大豪族である李育と張参である。王郎陣営の実際のリーダーは劉林と考えてよい。
 赤眉が河北に向かうと聞いてそれを恐れ、ちょうど河北に赴任してきた劉秀に水攻めにすることで、赤眉を全滅されることができると進言している。
 劉秀は非現実として拒絶した。それから王郎の挙兵が起こる。
 百万の赤眉を水攻めで全滅できるというのはあまりに非現実的である。包囲されて動けないならともかく、遊動している大軍に水攻めは難しいだろう。また数も多すぎる。
 また挙兵までの短さを考えると、劉林の進言はそのままの意味には受け取りがたい。もともと王郎を中心とした挙兵を進めており、時間稼ぎのため劉秀と赤眉を対決させようとしたのかもしれない。
 王郎の政権は典型的な豪族連合政権であり、赤眉という民衆反乱集団を恐れて結成されたものであることがわかる。そして劉秀は王郎、すなわち劉林にくみせず対決することになる。
 また後に銅馬帝と呼ばれるようになったことを見ても、劉秀が豪族よりも民衆を重視し、民衆の支持を気にしていたことが見て取れる。
 この王郎討伐で最も活躍したのが突騎である。王郎と劉秀の対決は一進一退で膠着していたが、背後からその領土を総なめにして潰滅させたのが、呉漢、耿弇らの突騎部隊である。
 劉秀を豪族の支持という観点から見る意見は多いが、ほとんど間違いであると考えて良い。
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