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儒家史観と共産史観

 儒家史観と共産史観に毒されている限り光武帝の実像は見えない。
 前漢、後漢ともに豪族の成長して民衆を圧迫していくとされるが、これこそ儒家史観の資料記述に基づいた共産史観の解釈である。
 この民衆圧迫の実態は、政府に取られたのが豪族に取られるように方向が変わったということである。政府の強さを考える儒家史観では、それをネガティヴにとらえるわけだ。
 実際の統計人口では前漢、後漢ともにその後半期に人口のピークがある。すなわち豪族が成長した世界こそ国家の経済が最も繁栄した状態ということだ。豪族とは、地域に根ざした勢力であるので、政府のような根こそぎの搾取はしないし、問題に対する対応も早い。
 また豪族は決して不法なヤクザ集団ではない。彼らの多くは県などの父老をつとめる、地方自治体のお役人である。政府の支配が弱まり豪族の支配が強まるというのは、地方分権ということでもあるのだ。

 新末の農民反乱、赤眉、銅馬、緑林などが発生したとき、豪族たちは恐怖し、団結して自立した。それが新末の群雄割拠の実態である。すなわち新末後漢初の群雄のほとんどは豪族連合政権であった。
 その中で明白に毛色が違うのが河北で自立した劉秀、光武帝である。
 光武帝の勢力はどういう構成だったか?

1.南陽から従うお役人。王覇、馬成など身一つで従ったものが多い。もちろん豪族出身もいるが、部下はほとんどなく、豪族としてではなく、能吏としてその力を発揮した。
2.河北で劉秀を迎え入れた豪族。これはまさにその豪族としての勢力で劉秀を支えた。ただし河北の豪族のほとんどは劉秀でなく王郎を支持したので、そのあまりの豪族である。
3.上谷と漁陽の突騎部隊。これこそが建国の主戦力であり、軍の中核である。これも豪族というより、軍人集団である。
4.銅馬の降兵。光武帝の兵員のほとんどは銅馬の降兵である。後に赤眉も降伏させてその兵員も組み入れている。光武帝の兵力のほとんどは銅馬と赤眉という農民反乱集団で構成されているのだ。

 どう見ても豪族によって支えられた集団などではない。南陽能吏、河北豪族、突騎部隊、農民兵団の連合政権なのだ。
 対してその他の群雄は、ほとんどが豪族連合政権である。そのため自分たちの利権にあわない光武帝政権と相容れることはとうていできず徹底抗戦することになる。光武帝はその統一の過程で、中国全土を火の海としてすさまじい戦乱の統一を成し遂げたが、それも光武帝が理想主義に走って豪族との妥協をしなかったためなのである。
 王莽はもちろん劉秀も理想主義者であり、だからこそ問題になった。劉秀が王莽と違い成功したのは、現実主義者だったからではなく、実力があったからだ。王莽が虚名の力だったのに対して、劉秀はその豪腕でねじ伏せたのである。
 だから、しばしば"光武帝が豪族と妥協した"とネガティヴに語るのは事実とは全くの正反対である。光武帝は豪族と妥協せず中国全土を焦土にしてしまったことをネガティヴに語るべきなのだ。

 光武帝の権力は圧倒的だった。それは漢の武帝や秦の始皇帝すらしのぐものである。光武帝は軍人あがりで直接武力を持っているのだから当然である。家臣を粛清しなかったのは、ただその必要がなかったからである。主要な功臣は自分から引退しているし、そもそも皇帝を脅かすような功臣はいなかった。なぜなら皇帝たる光武帝こそが最強の功臣だからである。劉邦にとっての韓信のような、皇帝を脅かす存在はいないのだ。
 光武帝は統一後も皇帝に直属する部隊を維持していた。さらに大臣の権力を排除して、徹底して自分が指示を出し、皇帝の完全一元支配体制を作った。塩や鉄の専売を廃止し、材官騎士を廃止し、国家の民衆経済の干渉を最小限にした。
 光武帝、明帝、章帝とすべて長男でないことは重要だ。すべて当時の言葉でいう儒教――すなわち学問に優れた人物が皇帝となった。賢人皇帝の支配による自由経済社会こそが後漢の特徴である。
 だがこの体制の限界は、皇帝の能力に依存しているということだ。皇帝にすべての権力があるため、皇帝が無能だと国家は無政府状態になってしまう。
 結果、宦官と外戚の抗争により後漢は倒壊するが、これも後漢は皇帝にすべてを依存する体制だったためだ。宦官は皇帝の側近であるから力があるし、外戚は皇帝の親族であるから力がある。決して豪族だからではない。豪族には政権を左右する力がなかった。もしあれば、党固の禁など起きないだろう。学生運動の半数は豪族出身者である。豪族が弱かったから、党固で敗北したのだ。

 まとめると、
1.そもそも豪族には政権を争うような力はない。
2.豪族による民衆の囲い込みは経済発展による必然的なもので、また国家支配ほど過酷ではない。
3.光武帝も王莽も理想を追い過ぎて失敗した。
4.光武帝の建国において豪族の寄与は少ない。

※南陽で成立した更始帝政権と、河北で成立した光武帝政権の性質の違いを無視して混同しているのが、豪族連合政権という発想なのだと思う。
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