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最強の勇者としての光武帝

 最近、光武帝の本質はその個人的武勇にあるのではないかと思うようになった。
 歴史小説では一騎打ちが描かれ、将軍の白兵戦も多いが、史実では総大将が白兵戦をするはずもなく、それがあれば負け戦の混乱の中のみである。
 ところが光武帝は将軍どころか皇帝として剣を手に敵中に斬り込み、敵を打ち破るのだ。
 君主なのに陣頭指揮して剣を奮った皇帝を捜してみる。
 後周の世宗柴栄は即位時の危機で陣頭指揮し、自ら斬り込ん戦っているが、部下の将軍たちの逃亡などの異常事態に際しての、皇帝の威信を確立するための緊急事態であった。
 唐太宗李世民も似た戦い方をしたが、皇帝に即位した後に自ら剣を取って斬り込むような暴挙はしていない。あくまでの父の李淵の将軍であった時期のみ前線に出ていた。明の永楽帝も即位前の内乱時のみである。そう考えるとこの光武帝の勇戦ぶりは特異な出来事だとわかる。
 後の残りは、前秦の苻生のような少し頭のおかしい暴君ぐらいである。
 皇帝という枠をはずして、無敵の勇士である西楚覇王こと項羽はどうか?
 しかしその項羽ですら、『史記』では最期の死ぬ間際、逃亡時の戦いでしか白兵戦をするシーンはない。光武帝のように戦いの山場で突入したわけではないのだ。
 すなわち君主なのに敵中に斬り込んで戦うのは、緊急事態か、頭の変な暴君か、無敵の勇士のどれかということになるのである。
 光武帝はどれほどの勇士であったのか? 光武帝の武勇はどのぐらいなのか?
 考えてみよう。小長安の戦いや桃城の戦いでは、家臣の猛将を勢揃いさせている。もし光武帝の武勇がたいしたことがなければ、ただ恥をかくだけである。もしも負傷したり、無様な姿を見せれば、家臣たちはこのぐらいなら俺の方が上だと異心を起こすだろう。家臣たちの結束が失われてしまうのだ。
 しかし逆に、家臣たちから見ても惚れ惚れするような武力があれば、自らの主の強さに家臣たちはその忠誠心を強めるだろう。すなわち光武帝は、賈復、馬武、臧宮、呉漢らの当時の最強将軍たちから見ても敬服に値する武力があったから、このような戦い方をしたということなのだ。光武帝は彼ら最強将軍たちに見劣りしない武力を持っていたと見なければならない。ここで敢えて光武帝自身が戦ったのは家臣たちに見せるためなのだ。
 そしてこの戦いに随行していた外国の使者である馬援は、主の隗囂に次のように報告している。
「未だかつてこのような明主を見たことがありません。才能は人を遙かに越え、その武勇は人間の敵対できるものではありません。心を開いて誠意を見せ、人と語るとき長所も短所も隠すことがありません。天下への大略を持ち、為し得るすべての恩を施します。用兵や戦略では敵を正しく計って勝利します。心が広くて大義を重んじることは高祖と同じです。儒教の経典に博識で、政治や文章は比べられる人もいません。事務に長けて、行動に節度があり、お酒を飲みません」
 ここではさまざまな説明をしているが、その中で最初に語られるのが武勇であることを見逃してはならない。光武帝について考えると、何よりも先に思い浮かぶのが武勇の人というイメージなのだ。そしてその武勇は、人間の域を超えていると述べているのである。

 光武帝は、自らのアイデンティティーを武人であると認識していた。それは光武帝の言葉から読みとることができる。
「妻をめとらば陰麗華、官につくなら執金吾」
 これは、光武帝の若い頃の言葉だが、執金吾とは首都の警察長官のことである。武人の憧れの職業といってもよいだろう。この頃から既に自らの武力に自信があったということだ。
 かつて息子の明帝に兵法を問われたとき、
「昔、衛の霊公が陣法を孔子に質問したが孔子は答えなかった。これはそれはそなたの及ぶところではない」
 と答えている。明帝も光武帝も、光武帝という人物を武人と捉えているのである。
 耿純には、
「純は年若くして甲冑を着て戦う将軍であったに過ぎないのに、郡を治めるとすぐにこのように慕われるほどになろうとは」
 と述べている。耿純も自分も武人であるという共感があってこその台詞である。文人と思ってこれを言えば嫌みになってしまう。
 馬援には、
「伏波(馬援)が兵法を論じると、いつも私と同じ意見になる」
 光武帝はいつもこのように感嘆し、その計略は常に採用された。すなわち、自分の兵法論が正しいから同じになる馬援も正しいという、自身の兵法への自信の言葉でもある。
 臧宮には、
「常勝の将軍は敵を恐れるのが難しい。私自身もそれに気をつけているのだ」
 と言った。自らを常勝の将軍と自認しているのだ。
 光武帝は天性の武人であり、勇者であったのである。

 こうしたことを頭に入れて伝記を読むと光武帝の行動の謎が解ける。それまで儒教的史観による聖人解釈では不自然だった行動が解きほぐれていくのだ。
 お忍びで深夜まで狩猟に出かけたこと。刺客がいまだいてもおかしくない乱世に、平然と微行で出かけ、家臣に止められてもやめなかった。かつて百万敵中を自在に駈けぬけた光武帝にとって、自分の首都で敵を恐れるなど馬鹿馬鹿しかったに違いない。
 馬援と警備なしで面会したこと。未だ敵国かもしれない国の使者である馬援と、警備も武装もなく一対一で面会した。馬援は私が刺客だったらどうするのかと驚いたのだが、これも刺客だとしても返り討ちにするだけのことかもしれない。
 敵の親衛隊長である馬武を呼び出して一対一で面会したこと。馬武は後に光武帝の将軍となり、無敵の猛将として活躍する。光武帝にとっての関羽、張飛である。邪魔な人物である謝躬を暗殺しようとして、敵の親衛隊としてその馬武がいたために中止したとき、光武帝は馬武を呼び出して一対一で面会した。驚くべき行為だが、より驚くべきは馬武の反応である。馬武は「(私は)臆病で兵法も知りません」と、まるでおびえていたような反応なのである。馬武は率直かつ単純な性格で頭に浮かんだことを何の遠慮もなく口にする男であり、しばしば問題を起こした。すると、この馬武の発言は謙遜でなく、文字通り光武帝に呼び出されて恐怖したと考えねばならない。馬武はかつて昆陽の戦いで光武帝とともに戦い、光武帝の戦闘能力を知り尽くしていたのだ。光武帝は馬武が恐怖するほど強かったのである。
 光武帝陣営の関羽、張飛というと、賈復、馬武の2人である。この2人が常に先鋒となり、敵を打ち破ったのである。賈復は自らを一番と考え、何事においても人に譲らず、出しゃばって自慢をする男である。ところが賈復も光武帝の前ではおとなしくなり、光武帝の前では一度として自分の功績を誇ったことがなかったのである。賈復は光武帝の親衛隊長のような存在で、いつも光武帝と一緒に戦っており、賈復もまた光武帝の戦闘能力を知り尽くしていた。
 最強の関羽、張飛級の2人ですら、光武帝には敵わなかったと推測できる。
 さらに項羽と比べてみよう、項羽がかつて章邯を破ったとき、大量の敵軍の降伏をもてあまし、すべて穴埋めの皆殺しにしてしまった。光武帝は銅馬を破り大量の兵士を降伏させたが、逆に自ら武装を解いて敵中に分け入って巡回し、彼らを完全に掌握してしまったのである。これはまさに真の勇気のエピソードである。
 そして統一後は戦いを捨て、戦争という言葉を耳にするだけでも怒り出したという。武人としての強いアイデンティティを持つ光武帝が武を捨てるというのは、並大抵のことではない。まさに君子豹変という語の原義にふさわしい、これまた真の勇者であることを示すエピソードである。
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