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リアル・スーパーヒーローとしての光武帝劉秀

冗談で皇帝になった男:あとがき(アマゾンの立ち読みするふうに……)
あとがき、あるいはの前書きの答え合わせ

(1)いかにも強そうではいけない
 身長170cmの平凡な体格。

(2)日常は気さくな人物であり
 冗談で皇帝になると言ったり、友人と戯れるのが好きな気楽な性格だった。

(3)軽んじられている
 兄の劉縯に劉仲と比較されたりした。

(4)突如その真の能力を発揮
 昆陽の戦いでは、気が小さいと思われた劉秀の凄さに周囲が仰天した。

(5)よく見ると二枚目 
 気勢形体、天然の姿と称えられる。また洛陽に入城したとき古老たちが涙を流したほど。

(6)戦うときの様子はとても格好良くて
 真天人也!(まことに天の人なり)と兵士たちが感嘆した。

(7)20代ならよいとしよう。
 挙兵時、28歳だった。

(8)後の時代にも生き続ける決め台詞をたくさん残さねばならない。
 劉秀の発言が成語となったものに、楽此不疲、得隴望蜀、有志竟成、疾風勁草、置之度外、差強人意、敝帚自珍、北道主人などがある。元気な老人を矍鑠と呼ぶのも劉秀より。

(9)人間離れした戦闘力を持つ
 其勇非人之敵(その武勇は人間に敵対できるものではない)と称えられた。
 
(10)喧嘩っ早いのはダメ
 劉将軍はいつも小さな敵にも臆病だと笑われていた。

(11)ここ一番本当の強敵と戦うときは、自らの手で戦い
 劉秀が確実に敵に斬り込んで戦ったことがはっきり記載されるのは、百万大軍との戦いである昆陽の戦い、部下の将軍を次々と打ち倒した最強将軍奉との戦い、抜群の知将として将軍たちを翻弄した董憲との戦いなど。

(12)不敵にジョークの一つ二つ言って切り抜けなければならない
 生涯唯一の敗戦のとき、矢玉飛び交う戦場を逃げながら「危うく捕虜になって笑いのネタになるところだった」と笑っていた。また「突騎が味方についた」と公言する相手に、そっくりそのまま「突騎が味方についた」と言い返した。
 
(13)ヒーローは戦わなければならない宿命を背負っていた
 昆陽の戦いの英雄として周囲の人望があり、また劉氏として亡き兄の志を継がなければならなかった。

(14)女性や子どもたちにはむしろ弱くなければならない
 叔母には宴会でネタにされ、姉や妻には振り回されっぱなしである。

(15)誰もが羨むような美人のヒロイン
 もちろん陰麗華である。

(16)ヒロインは心優しく芯の強い女性であり
 陰麗華は意志が強く、弱い者に優しかったと記される。

(17)時にヒーローに逆らい振り回したりする
 陰麗華のやることなすことすべて劉秀の意志に逆らうことばかりである。

(18)ヒロインと生涯にわたって相思相愛でなければならない
 劉秀、陰麗華カップルは生涯変わらず仲が良かった。

(19)ヒーロー自身はあまり女性にモテモテであってはいけない
 劉秀には、陰麗華、郭聖通、許夫人の三人しか女性が出てこない。歴代皇帝の中でも最小クラスである。

(20)性格は親しみやすいといっても、少しぐらいは心に影がある方がよい。
 戦場であまりにたくさんの人を殺したことをずっと心に病んでいた。兄の死についてもいつまでも忘れられなかった。

(21)一見平和に見える時代であり、その裏が腐敗している
 前漢末から王莽の新王朝の時代、人口は中国史上最高の5900万を記録するが、王莽の頻繁な法律変更は行政を大混乱に陥れ、地方官の搾取と専断の時代を生み出した。

(22)目立たない平凡な名前である
 秀というのはどこにでもある名前で、そのため同名の大臣がいた。
 
(23)ヒロインの名前もシンプルなのがよろしい
 麗華もどこにでもいる名前。ちなみに著者の知人にも麗華や秀という人がいる。2000年後の外国である日本人にも見つかるほど平凡な名前なのだ。
 
(24)性格や容貌をそのまま表現した名前でなければならない
 秀は見た目が良いという意味であり、麗華も美しいという意味である。顔の美しいことを眉目秀麗というが、秀麗とはまさに二人の名前を合成したものになっている。また面白いことに、現代中国語で秀とは、見世物、ショーの意味である。英語のshowを音訳したのだ。劉秀とは、劉君showなのであり、まさに光武帝の後漢建国の物語にふさわしい。
 
(25)一千万人以上の人命を救えば
 当時の後漢が統一したときの統計人口は2500万程度。一千万人以上救ったといえるだろう。

(26)他の人たちも何もなかったかのように親しげに話しかける
 叔母のほか、郷里の役人にはケチ呼ばわりされた。

(27)人の上に立つことを好まない平等思想の持ち主
 西暦35年3月6日にして人間の平等を宣言し、奴婢の不平等刑法を廃止した。宮殿の門限を破ったとき皇帝をも平等に扱って追い払った家臣を賞賛した。また人と話すときは相手の前まで降りて話したという。
 
(28)戦いに勝利して世界に平和をもたらし、本人もヒロインと抱き合ってハッピーエンド
 天下統一し、家族にも恵まれ、息子がそのまま次の時代の皇帝になった。
 
 ヒーローの条件が28あるのはもちろん、漢建国228年目に28歳で挙兵し28人の勇士と後漢を建国したという、劉秀の趣味に合わせたのである。

実在の人物なのに正義のスーパーヒーローの条件をすべて満たす光武帝恐るべし!

冗談で皇帝になった男:まえがき(アマゾンの立ち読みするふうに……)

正義のスーパーヒーローは実在可能か?
 ところでこの本は少し唐突な話題で始めようと思う。読者に質問だ。映画やアニメに描かれる正義のヒーローとはどんな人物だろうか?
 まずいかにも強そうではいけない(1)。日常は気さくな人物であり(2)、周囲の人たちに親しまれていても決して怖がられたりしておらず、むしろ軽んじられている(3)。しかしいったん事件が発生すると突如その真の能力を発揮して(4)、敵を倒すのである。
 見た目は強そうではないが、よく見ると二枚目(5)でなければならない。イケメン俳優が演じるのだから当然である。もちろん戦うときの様子はとても格好良くて(6)、見ている子どもたちが真似したくなるほどでなければならない。
 年齢も若くなければならない。おっさんや爺さんでは駄目である。ここでは20代ならよいとしよう。(7)
 格好いいのは見た目だけでなく、セリフも決まっていなければならない。後の時代にも生き続ける決め台詞をたくさん残さねばならない(8)。
 敵を倒すのだから、当然強くなければならない。人間離れした戦闘力を持つ(9)無敵のヒーローである。
 また日頃から戦ってばかりで好戦的ではいけない。喧嘩っ早いのはダメ(10)。むしろ他の人たちが苦戦しているところに現れて味方を救出し、敵を打ち倒すのだ。ここ一番本当の強敵と戦うときは、自らの手で戦い(11)ケリをつけねばならない。美味しいところを見事にかっさらっていくのがヒーローである。
 時には強敵と戦い苦戦するが、そんな時も不敵にジョークの一つ二つ言って切り抜けなければならない(12)。戦いに泣き言は禁物だ。
 だがヒーローは戦わなければならない宿命を背負っていた(13)。望まぬ戦いの人生を送らねばならないのは逃れ得ぬ運命なのだ。
 しかし強いのは戦うときだけでなければならない。日常、特に女性や子どもたちにはむしろ弱くなければならない(14)。
 ヒーローには当然、誰もが羨むような美人のヒロインがいなければならない(15)。そのヒロインは心優しく芯の強い女性であり(16)、時にヒーローに逆らい振り回したりする(17)。男女関係では多少情けないぐらいのヒーローがよい。ヒロインとは、生涯にわたって相思相愛でなければならない(18)が、ヒーロー自身はあまり女性にモテモテであってはいけない(19)。子どもにも見せたいヒーローモノの主人公は、不自然なことだが女性にモテてはいけないのだ。
 性格は親しみやすいといっても、少しぐらいは心に影がある方がよい(20)。その影を埋めてくれる人こそヒロインだからである。
 社会背景もまた一見平和に見える時代であり、その裏が腐敗しているのがよい(21)。最初から混乱した時代では、意外性がなくつまらないものだ。
 日常は目立たず平凡に暮らしているであるから、名前も目立たない平凡な名前である(22)。ヒロインの名前もシンプルなのがよろしい(23)。ただしわかりやすいように性格や容貌をそのまま表現した名前でなければならない。(24)
 そしてヒーローの活躍によりたくさんの人命が救われ、守られなければならない。ここでは少し少な目に、一千万人以上の人命を救えばヒーローと呼んでよいこととしよう(25)。そしてどんな凄いことをしてもヒーローは威張ったり自慢したりしないし、他の人たちも何もなかったかのように親しげに話しかけるのだ(26)。本能的に偉そうな奴が嫌いで、人の上に立つことを好まない平等思想の持ち主(27)こそヒーローに相応しい。
 そして戦いに勝利して世界に平和をもたらし、本人もヒロインと抱き合ってハッピーエンド(28)で終わるのだ。
 実にご都合主義の設定である。この条件を半分も満たすことのできる人物はいないだろう。実在が不可能な夢物語の設定である。
 ところがそうではなかった。この空想上の無理難題な条件(1)~(28)を一つ残らずすべてクリアーした人間がいたのだ。それがこの本の主人公である光武帝、劉秀なのである。
 そう、そもそもこれはスーパーヒーローについて書いたものではないのだ。これこそが『後漢書』――歴史的に真実が書かれているとされる歴史書――に描かれる光武帝の姿なのである。
 

光武帝を理想とした英雄たち
 これほど驚異的な人物であれば、当然高く評価する人たちがたくさんいる。
 まずは『三国志』の英雄たちである。
 この本を手に取った人には、同じ中国史モノとしてかなりの数の『三国志』マニアがいるはずだ。その『三国志』の英雄たちの心の中のアイドルこそ光武帝なのである。
 『三国志』の英雄たちはみな光武帝の真似をすれば天下を取れると考えていた。
 劉虞は光武帝に似ているという理由で皇帝に擁立されそうになったし、袁紹が河北から統一を目指したのは光武帝を真似たものだし、曹操が敵の文書を読まずに焼き捨てたのも光武帝の真似である。孫権は呂蒙に光武帝みたいに戦場でも本を読めといい、魯粛との関係を光武帝と禹の関係と比較したりした。
 孫策はいつも光武帝とその家臣があの若さで戦場で活躍したことに憧れていた。
 そもそも漢の復興を考える諸葛孔明が次に戦場になるのが確実な南陽などに隠棲したのは、光武帝の故郷だからである。
 さらに孔明と曹植は光武帝と家臣の論評を手紙でやりとりした。そこでは光武帝の二十八将などの家臣が有能かどうかが議題になったが、光武帝が凄いということについては疑問の余地もなく一致していた。
 『三国志』の研究者である満田剛氏は、袁紹、袁術、曹操、劉備、劉虞はみな光武帝を意識していたとしている。
 『三国志』は後漢末に始まる物語である。その時代の人々にとって人類史上最高の英雄とは後漢を建国した光武帝に他ならないのである。
 もちろんまだまだいる。
 特に有能で歴史を詳しく知る人物こそ光武帝を高く評価する。
 一人はまず司馬光である。司馬光とは北宋の時代に『資治通鑑』という歴史書を編纂した人物であり、『史記』を編纂した司馬遷と並ぶ二大歴史家である。
 司馬光はその著書で後漢論を書いている。後漢はおよそ二百年で滅ぶのだが、その後半は皇帝不在の無政府状態だった。ところがいつまでも滅びずに続いたのは光武帝の力だというのだ。二百年近く後の国家の盛衰まで左右したというのだから驚きである。光武帝があまりに凄かったためにその王朝を倒すのを誰もが嫌がったのである。そこで司馬光は、光武帝を伝説時代の聖王に匹敵する存在とした。
 二人目には岳飛を挙げよう。
 岳飛は南宋の名将であり、中国史上最高の名将と考えられている人物である。岳飛は、皇帝に親征して自ら北方の金と戦うように進言しているのだが、そのときに名前を挙げるのが光武帝なのである。戦場で戦う皇帝と言えば、真っ先に思い浮かぶのが光武帝というわけなのだ。
 三人目に中国史上最高の名君と考えられている唐の太宗李世民を挙げよう。
 李世民はその用兵において光武帝と類似した戦法を用いて天下を統一した。家臣を表彰するため、光武帝の二十八将を参考にした二十四人を選んで祭るようにした。忠臣の蕭瑀を光武帝の忠臣王覇と比較し、一番の腹心である房玄齢をいつも光武帝の腹心である禹と比較していた。
 四人目に北宋建国の太祖趙匡胤を挙げよう。
 趙匡胤は家臣への待遇について光武帝を参考にしていた。また心を開いて本心を隠さない性格であり、光武帝の故事である「赤心を推して人の腹中に置く」を実行していた。
 『三国志』のすべての英雄たちのスーパーアイドルであり、中国最高の歴史家が聖なる帝王と称え、中国史上No.1の名君と名将が手本とした人物、それが光武帝なのである。
 

時代背景
 しかしおそらく、この本を手に取った読者の多くは、光武帝なんて聞いたことがないか、名前だけしか知らないだろうと思う。そこで本文の前にいつ頃の人かざっと紹介しておこう。
 光武帝は、姓は劉、名は秀。古代中国の後漢王朝の初代皇帝である。紀元前5年1月15日生まれ、西暦57年3月29日没。西洋ではちょうどイエス・キリストと同時代だが、キリストが生没年もはっきりしないのに対して、光武帝の生没年月日は同時代に記録された公式記録である。
 古代中国の紀元前2世紀から紀元後2世紀までは、漢王朝が四百年続いたとされる。しかし実はその間に新という王朝があった。わずか20年足らずで滅ぶ短い王朝である。
 この王莽の新王朝を挟んで、それ以前の漢王朝を前漢、その後を後漢と呼ぶ。ちなみに現代中国では、前漢を西漢と呼び、後漢を東漢と呼ぶ。これは首都の位置が違っているためである。前漢の首都長安は、後漢の首都洛陽より西にある。
 この新王朝の末期から後漢の初期にかけて数十年間は群雄割拠の乱世であり、たくさんの豪傑や将軍が天下を争った。『三国志』と同じような状況と思ってよい。その中の将軍の一人が光武帝こと劉秀であり、天下を統一して王朝を開いた。劉秀はその名前の通り前漢皇帝の劉氏の一族であるので、漢王朝の復興を名目とし、自らの王朝をそのまま漢とした。
 ちなみに日本との関係でいうと、日本の古代史の謎の一つ、倭奴国王印という金印を贈ったのが光武帝である。
 この本は光武帝について史実の記録を元に解説する本である。時代は王莽の新王朝が成立する前、前漢の末期から始まる……

冗談で皇帝になった男 ― 中国五千年最強の皇帝・後漢光武帝の生涯

(目次案を実際に書く中で修正してみた・分量バランスが難しい……)

冗談で皇帝になった男 ― 中国五千年最強の皇帝・後漢光武帝の生涯
(帯)
 三国志の英雄たちが最高の君主としてあがめる後漢建国の光武帝・劉秀。その姿を『後漢書』の記述から解き明かしていくと、そこに現れたのは超ハリウッド級のスーパーヒーローだった!
 
《目次案》
序章.光武帝についての予備知識
 正義のスーパーヒーローは実在可能か?/光武帝を理想とした英雄たち/時代背景
 
1章.表はお気楽学生・裏は侠客
 誕生/郷里南陽にて/官につくなら執金吾、妻を娶らば陰麗華/長安でのお気楽学生生活/王莽の生い立ち/聖人か偽君子か/儒教復古主義か古代の社会主義者か/高句麗なんて下句麗だ/大臣劉歆の改名/皇帝なんて僕でもいいんじゃない?
 [コラム]前漢の首都長安と学問(長安の地図)
 
2章.百万vs.三千・昆陽の戦い
 反政府運動の拠点・南陽劉家/自称劉邦、兄劉縯の挙兵/緑林の盗賊たち/牛に乗って現れた救世主/酒乱皇帝・更始帝の即位/王莽、史上最大軍団を結集する/戦力差ギネス記録・昆陽の戦い/勝利と仲間割れ
 [コラム]謎の兵法書『三略』と光武帝
 
3章.天下大分裂・更始帝と赤眉
 徐母の挙兵/赤眉の挙兵/赤眉の名将董憲、更始将軍廉丹を討ち取る/緑林軍と更始帝、洛陽へ/九虎将軍全滅、王莽死す/グライダー作製と人体解剖/くじ引きで皇帝になった牛飼い少年/更始帝と赤眉の激闘
 [コラム]群雄割拠の勢力図
 
4章.河北に集結する二十八星宿
 占い師は皇帝の孫・王郎/疾風のみが勁草を知る/学友禹の訪問/政略結婚/策士寇恂/最強の突騎軍団の南下/騎兵と歩兵・漢代の戦争/内通者の手紙を焼き捨てる/敵を倒すのは朝飯前・猛将賈復/無敵の盗賊将軍馬武/赤心を以て腹中に置く・銅馬軍の降伏/光武帝即位
 [コラム]軍師禹・天下統一のシナリオライターは24歳
 
5章.戦う超人皇帝・中原統一への道
 流浪する赤眉軍の降伏/復讐の闘将奉、光武帝を引きずり出す/河南の皇帝劉永との決戦/中原震撼・敵中を駆け抜ける超人皇帝/韓信を超えた耿弇の張歩討伐/馬成の李憲討伐・完全戦法あり/赤眉の名将董憲散る
 [コラム]医の道へ転身した無敵の名将耿弇
 
6章.去り行く英雄たち・天下統一
 周の文王を目指した隗囂/馮異と空城の計/棺で凱旋した儒将軍・祭遵/隴を得て蜀を望む/向かうところ敵なし・名将岑彭/来歙と岑彭、暗殺さる/勇士延岑の決戦・死中に活を求む/大成皇帝公孫述死す
 [コラム]敵はすべて皆殺し・戦慄の猛将呉漢
 
7章.剣を捨てる・非戦平和主義へ
 名馬名剣は兵士に/匈奴を経済封鎖・西域も関を閉じる/ベトナム徴姉妹の挙兵/名将馬援の激闘/大規模センサスと内乱/循吏と酷吏・民衆こそ最優先/奴隷解放と人権宣言/徴兵制と塩鉄の専売廃止・学問の振興/史上唯一、創業と守成と継承に成功した皇帝/古代最高の平和、教育、経済を生み出した後漢/光武帝を超えるのはただ光武帝のみ
 [コラム]空気が読めない名将馬援=アスペルガー症候群説
 
8章.家族愛と友情・超ハリウッド級ハッピーエンド
 二十八宿伝説/功臣との定期宴会/予言書大好き/城を抜け出す/姉ちゃんの婿を捜せ/ひねりのあり過ぎる会話集/リンカーンと比べる/現代に通じる第五水準のリーダー/郭聖通と陰麗華/泰山封禅
 [コラム]劉秀、陰麗華と七夕伝説の誕生
 
あとがき、あるいはの前書きの答え合わせ

光武帝:主要な出来事の西暦

紀元前 5年 1月15日 光武帝生まれる
西暦  23年 7月 7日 昆陽の戦い
西暦  23年10月 6日 王莽の死
西暦  25年 8月 5日 光武帝即位
西暦  35年 3月 6日 人権宣言:奴婢の法改正
西暦  56年 3月27日 封の儀式(泰山封禅)
西暦  56年 3月30日 禅の儀式(泰山封禅)
西暦  57年 3月29日 光武帝死去

この日付は本の原稿に使う予定のもの。
問題点はこれがユリウス暦かグレゴリオ暦かわからないこと。
大差ないからまあいいかな。

理想を持たない君主としての光武帝

 英雄にはたいてい理想の人物として尊敬したり私淑する人物がある。劉邦が信陵君を好んだり、三国志の人物の多くが光武帝を理想としたようなものである。
 さて光武帝自身はどうか?
 実は光武帝はそういう理想像を全く持たない。兄の劉縯は劉邦を自負していたが、光武帝自身は誰か特定の人物を尊敬するようなことがなかった。光武帝は全くのノンポリであり、政治思想を持っていなかったため、理想像などないのである。それでも強いて挙げれば漢の文帝ということになるが。
 本質的に唯我独尊の人物であり、この点においても項羽に似たところがある。光武帝が謙虚な人物ではないことは、その発言の節々から見いだすことが可能である。
 光武帝はおとなしいと思われがちであるが、暴君との共通点が多い。怒ってぶち殺すと息巻くエピソードには事欠かない。しかし殺すと言って大騒ぎして殺さないのが光武帝の特長である。言葉を撤回して平気なのが光武帝の君主としての異常さである。
 これを単に、人の意見をよく理解できるから、などと考えてはいけない。言葉を撤回するというのは、その言葉の重みを疑わせることであり、そんなことが続けば君主の威信は失われ、誰も指示に従わなくなるからである。
 君主というのは間違った判断であっても、それを取りやめるより実行した方がよいのである。そしてそもそも間違わないことが求められる。
 これが何を意味するのか。
 これは光武帝の権力の圧倒的な大きさを意味しているのだ。どんなに発言や行動を撤回しても威信に影響がないほど絶大な権力を持っていたということである。
 光武帝とはそもそも軍人上がりの皇帝であり、その権力基盤は軍事力にある。統一後も、黎陽営のような皇帝直属の軍隊を維持していたし、功臣との関係も安定していた。光武帝は何かイベントがあるたびに功臣を集めて宴会したが、これはただ旧交を温めているのではない。自己の権力を示しているのだ。何かあれば一声で十万以上の大軍が集まることを示しているのだ。
 そのうえ光武帝は大臣の権力を奪って、皇帝に集中していた。歴史上ここまで皇帝に権力を集中させたことはなかったといってよい。光武帝の絶対性はあまりに圧倒的であり、基本的に何もやっても許される状態にあったのである。
 そしてだからこそ自らの高すぎる絶対性を崩す意味でも、簡単に撤回するのである。おそらく歴史上の皇帝の中で、意見や意志を変更した回数No1.は光武帝と考えてまず間違いないと思う。そしての結果が30年を超える在位をほぼノーミスでクリアすることにつながっているのである。

美女の運命

中国の美女ってみんな悲惨な運命の人が多い。
探しても幸福に天寿を全うしたケースがほとんどない。
卓文君と陰麗華ぐらいなのかねぇ……

劉邦過剰評価論

 普通、中国史の英雄をリストアップすれば、劉邦はベストテンにランクインすると思う。しかし私の評価ではベスト20にもランクインするのは難しい。
 劉邦は偉大な漢王朝を立てたため高く評価されるわけだが、実際の漢の王朝の歴史を見れば、劉邦はその基礎部分を作っただけである。漢王朝が偉大なのは、文帝、景帝、武帝と名君が続いて国が大きくなったからだ。漢王朝の偉大さは4人で作ったものであり、劉邦の功績は30~60%ぐらいと見るべきである。
 劉邦が死んだときの権力の大きさはとても秦の始皇帝とは比べものにならない。領土を見てもそれほど大きいわけではない。始皇帝は、匈奴と南越を平定したが、劉邦は匈奴に敗退し南越は放置したまま、地方には諸侯国があって間接統治である。漢が世界帝国になるのは、文帝、景帝、武帝のおかげである。

 劉邦の人物としての凄さは人間的魅力と考えられることが多い。
 しかしこれも疑問である。陳平の評価を見よう。

 項羽は礼儀正しいので、義を知る者が集まるが、物を惜しむので野心家が集まらない。劉邦は礼儀がないので、義を知る者は集まらないが、物を惜しまないので、利益を好む者が集まる。

 人間的魅力そのものには大差がないのだ。おそらく現代の読者が人気投票しても、項羽と劉邦には大差はないのではないかと思う。
 違いは知力であった。はっきり言えば項羽は騙されやすいのだ。だから謀略によって切り崩すことで劉邦は勝利したのである。当時は項羽と劉邦の二者択一の時代である。劉邦の家臣の多くは、劉邦に魅力を感じたのではなく、反項羽同盟として劉邦の傘下に加わっただけなのだ。
 その現実を示すのが劉邦の死後の家臣の行動である。劉邦の子どもが次々と殺されていくのに誰も止めようとしない。誰も劉邦に恩など感じておらず、国が安定していれば劉邦などどうでもよかったのである。反項羽同盟だからである。
 劉邦は本質的に謀略の人である。人の使い方もまた計算によって行われている。黥布と面会したとき、傲慢な態度で面会してそのプライドを砕き、そしてその後に厚遇することで心をつかんだ。これが完全に計算であることは顔師古も指摘している。人を物と見て計算で応対するのが劉邦である。
 劉邦が愛情豊かな人物などではないことはエピソードからすぐ理解できる。項羽に敗戦して逃亡するとき、子どもを何度も捨てたこと。妻子や家族を項羽の人質になったまま平然と対決していたこと。劉邦の人間のタイプとして近いのは、曹操や司馬懿であるが、農民出身であるため知識に限界があること、参謀ではなく君主であるため露出度の高さから統計的に失敗が多くなり、謀略の印象が弱くなっているだけなのである。

 劉邦の偉大さは、始皇帝の統治による愚民政策が生んだ空白時代のたまものである。劉邦がもしも他の時代に生まれていたら、天下統一はおろか小さな国を立てることも難しいだろう。天才は生まれてくるのではなく、時代が生み出すもの。劉邦という個人は全く偉大でも何でもないのである。

限りなく神に近い悪魔としての陰麗華[再掲載]

 東海恭王(てぃーえすのワードパッド)

 こういう話題があったので、古いネタを再掲載してみる。
 全く違う解釈も考えてみる。陰麗華を徹底的に賢いと考えるとすればどうか?
 陰麗華のすべての行動は演技であり、すべては計算尽くのことだったのだ。
 会う者、話す者すべてを自らの木偶と化す魔の女。身の回りに近づく者すべてマインドコントールし、支配する。さらに、無色無臭の弱いながらもじわじわと死に至らしめる毒を自在に扱う。逆らう者を、その笑顔ととも死への歩みへといざなうのだ。
 その心理をあやつる技術はほとんど魔術の域に到達している。劉秀の心を完全に支配し、息子劉荘を強度のマザコンにしてしまう。対立する郭聖通をじわじわと追いつめて狂気に至らしめ、早死にさせてしまう。
 その息子の劉彊も、明帝即位後に抹殺する。
 功臣の生き残りたちも劉秀とともにさり気なくかつ確実に消去していく。
 劉秀の死は西暦57年。その2年前の時点で8人の功臣が残っていたが、一年ごとに、
 
 55年に賈復[功臣3位](残りは7人)
 56年に馬成[功臣17位](残りは6人)
 57年に劉隆[功臣16位](この年に光武帝崩御)(残りは5人)
 58年に禹[功臣1位]、耿弇[功臣4位]、臧宮[功臣14位]、劉彊[前皇太子](残りは2人)
 59年に王覇[功臣23位](これで残りは1人)
 
 劉秀とともにほとんどの功臣が亡くなっているのだ。最後まで残ったのは馬武[功臣15位]で61年没(これで二十八将全滅)である。ちなみに、雲台の三十二将まで幅を広げても62年没の竇融が残っているだけである。陰麗華より長生きした功臣は一人もいないのだ。
 どうせ陰麗華を賢い女と見なすなら、ここまで考えた方が面白い。しかし、意外に筋が通っているのが、怖いな……

 ちなみに陰麗華の一家は当時の有名な富豪であるが、それには理由があった。
 葛洪の『神仙伝』によると、陰長生という後漢新野の人がおり、後漢和帝の皇后陰氏はその曾孫と記録される。陰長生は南陽の馬明生に道術を学ぶこと20年、太清金液神丹を授けられたという。また『太清金液神丹経』という書を残したらしい。『後漢書』には、和帝の皇后陰氏は、陰麗華の兄陰識の曾孫とある。陰長生と同族であることは疑いない。
 陰氏の先祖には竈の神を祀ることで大金持ちなったという記録がある。竈の神とは火を使う作業に関連する神であり、錬金術に関連したことで大金持ちになったことを示唆しているのだ。さらに先祖を探ると斉の国で医師をしていた人物を見出すことができる。
 陰氏はこうした化学の方面の技術を持つ一族であり、それにより繁栄していたのである。

 ……毒も使えそうだね。それに後漢の皇帝がみ~んな短命なのも気になるし……

※追記
 一族だけにまさにの支配者一族!怖えー(笑)
 そして光の世界を支配するのは、陰麗華の愛する息子明帝劉である。※皇太子になるときに荘に改名。
 母子で、陰陽を制圧だ!
 つーか、さすが劉秀、自分の息子の名前までこんな付け方しているとは……

アーサー王と円卓の騎士

最近、アーサー王と円卓の騎士を英語で読んだ。
円卓の騎士で私がすぐに思い浮かべたのが光武帝の二十八将。

二十八宿考察 ― 二十八将はどのように選ばれたか?

に書いたが、二十八将は後に生まれた伝説などではない。
もちろん次の皇帝の明帝が選んだものでもない。
光武帝が生きた同時代に伝わっていたことである。

円卓の騎士みたいに席を決めて選んだんじゃないかと想像している。
また二十八将はよく考えれば、水滸伝の原案でもある。

考えたら光武帝の方がアーサー王より昔の人なんだよな……

アーサー王の物語を読みながら、こういう話は光武帝でも作れるなと思う。
光武帝は若い頃は民間人だし、皇帝になってからも頻繁に宮殿を抜け出していた。
これなら歴史を気にせずエピソードをねつ造し放題である。

また当時の風潮や後漢書の記述は実にファンタジーに満ちている。
方術伝に出てくる、妖しい魔術師たち。
狂信的に取り憑かれた皇帝王莽。
飛び交う予言書。
暗躍する暗殺者たち。
天命を受けた二十八星宿の将軍、劉秀と陰麗華にまつわる天文記録。
昆陽の戦いの山場の突然の稲妻と暴風雨。実に妖しい。

きっと光武帝と二十八宿の物語は、
いつか東洋版『アーサー王と円卓の騎士』として有名になるに違いない!
やっぱマーリンは荘光(厳光)かな?

"やる夫が光武帝になるようです。"を読んで気合いを入れる

最近、手抜きで広告まで出てしまったので、
気合いを入れる意味で
"やる夫が光武帝になるようです。"
を読んだ。普通に面白い。
一気にまとめ読みしちゃった。
ただしAAの元ネタ全然わかんないけど。

登場人物のイメージが私の持っているものと近いのが嬉しい。
……最重要人物の劉秀、陰麗華、禹はちょっと違うかな。
廉丹を倒したのが董憲であることが書かれていないのは残念。

内容で気になったのは、
・南陽の農業
 南陽は米作地帯なので、稲のはず。粟じゃないよ。南陽の主要農業は水稲とされる。牛を使い、専用の肥料を投じて、潅漑を利用した米麦の二毛作とも言われる。
*米田賢次郎(1991)『中国古代農業技術史研究』
・奴隷
 奴婢は西洋の奴隷とは全く異なるもの。自分を買い戻して良民に戻った記録も実在する。奴婢は個人の私物ではなく、国家の法のもとにあり、勝手に殺したりはできない。あくまでも契約関係なので、契約にない仕事をさせられることはない。王莽の息子王獲が奴を殺したとき、息子に自殺させたのも法を守る行為として行われた。また、西洋と違い、人口に占める割合もそれほど多くなかった。光武帝の略人法、売人法も、従来の法律の上に重ねて施行されたもの。
*好並隆司(1978)『秦漢帝国史研究』
・兵力数
 国淵の言葉は、斬首など戦功としての報告死傷者数を0を一つ増やすということであって、敵軍の人数記録の話ではないと思う。たとえば、岑彭が秦豊と戦って斬首9万余り、馬武が隗囂の追撃を防いで反撃したとき数千人殺したとか。このあたり0が一つ多いかもしれない。とはいえ、歴史書がそれを考慮して修正した後なのか、その前の数値なのかわからないので、当時の状況を確定するのはほぼ不可能。

曹操は一本眉女が好き?

魏の建国者の曹操は天下統一を志した。彼は何事も、二つ以上あるものは皆一つにまとめるという方針を立て、二つある眉はつなげて一つにできるとし、女性の眉を一本にさせた。『世界の衣装』朝日新聞社

PHSの怪現象

PHSをHoneybee2に変えた。
すると、メール自動着信しなくなった。
もちろん設定はすべて正しいのは確認した。
原因を確認すると、何と古いPHSの電源を切らないと、
そちらに着信通知してしまうらしい。
目覚まし時計として愛用しているので、困った話である。
何とかする方法はないのかなあ……

光武帝を数値化

世界史上の人物をコーエー数値化するスレまとめ(他
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/

光武帝も一応作ってみよう。既にあるけど……

劉秀(BC6~AD57)
後漢光武帝 世祖

統率 82
 将軍としての敗戦は一度だけで、部下への指揮能力も高い。

武力 96
 歴史上を見ても10万の大軍を率いてもなお自ら斬り込む皇帝は光武帝ぐらいではないか。あの項羽ですら追い詰められなければこんなことはしない。ところが光武帝は明らかな勝ち戦さで最強のメンツをそろえた上で自ら斬り込んだのだ。一度ならず。銅馬軍の中を平気で巡回したり、危険を無視して微行を続け、百万大軍に三千で突入した強心臓ぶりも、真の武力の裏付けがなくてはとうてい不可能であり、まさに"其勇非人之敵"、人間の域を超えた戦士である。

知力 77
 敵を徹底して戦争でつぶす方針は駆け引き上手とは言えない。本人も殺しすぎたことをずっと後悔している。怪しい予言書をまじめに研究したりするのも減点。

政治 92
 民政の判断は素晴らしく文句なし。法律、経済、教育すべて民衆のために徹底していた。

魅力 98
 皇帝即位後の外様将軍の離反を除くと、部下に誰一人反旗を翻すものもなく、引退させるのにも、何も言わずに部下が察して身をひいてしまう。あるいは家臣は勝手に行動するのにそれが光武帝の意にかなってしまうなど、家臣団の結束の高さは驚異的。

特殊能力
 だじゃれで周囲の緊張を解き部下を増やす
 だじゃれで美人を口説いてふられる……そらふられるわ

中国語Google画像検索で引くとこんな記事を発見
http://lianzai.china.com/books/html/813/4191/38329.html
ここ数年、光武帝はますます人々の注目を引いているらしい

おおっ、我らがアイドル麗華ちゃんが……
http://www.xooob.com/298348_507104.html
http://www.365qy.com/bbs/attachments/forumid_27/20080220_7e002b52142208764e8atMDLB9AlVboI.jpg
http://hi.baidu.com/nayelingyu/album/item/9ee9e5d9275c05fe39012fed.html
しかしもし七夕伝説=劉秀&陰麗華説が本当なら、
後漢時代のスーパーアイドルかもしれん……

光武帝を解説したページがある。結構詳しい。
http://www.china.com.cn/aboutchina/zhuanti/lddw/node_7042447.htm

今年は牛年

今年こそは何が何でも陛下に出陣してもらわないと!
牛にのって挙兵だ!

EeePC901Xで休止状態を使用

EeePC901Xで休止状態を設定できた。
むっちゃ起動早くて便利!
起動に18秒!電源切るのに38秒だ!
いっぱい削除したけど、まあいいや。特別なことしないしね。

儒教的史観が光武帝の実像を覆い隠す

 中国の歴史書は、次の時代の王朝によって書かれる。そのため前王朝の君主を悪く描き、今の新しい王朝の開祖を良く描くと言われる。
 しかしこれはあまり正確な考えではない。
 正しくは、史書では新王朝の開祖を儒教的聖人になぞらえ、旧王朝の君主を暴君になぞらえる。具体的には、新王朝の開祖は周公として、最後の君主は殷の紂王になぞらえられるのだ。これが儒教的史観である。
 たとえば、唐太宗李世民と隋の煬帝、劉邦と項羽/始皇帝の関係などが典型的である。
 では光武帝の場合はどうか?
 光武帝も儒教の聖人に、対する人物として王莽が暴君紂王として描かれるわけである。
 ところがこれが大問題を生じる。というのも、王莽はその人物がまさに儒教的聖人を身を以て体現した人物であり、逆に光武帝は武力による力ずくの天下統一をなした将軍だからである。すなわち、実像は王莽こそ聖人であり、光武帝は暴君に似ているのである。
 王莽は暴君になぞらえることで、その志を低く疑われて描かれている。能力という面では事実通りとしても心理面は正しく評価されないわけである。
 さらに問題なのは光武帝である。およそ光武帝ほど儒教的聖人から遠い人物はない。光武帝の政治は法家であり、他人に対する態度は道家であり、自らの行動は墨家である。光武帝は儒教から実に遠い人物だ。
 光武帝は、何もかもすべてを自分から行う人物である。政治でも戦場でも自らの力を尽くすことで人を従わせた。劉邦と項羽の関係で言えば、項羽のやり方で天下を取ったのである。
 さらに、官僚に対する厳しい態度、兵士や民衆に対する徹底した平等主義など、現代人から見れば素晴らしいと思われる施策も、儒教的観点からすれば虚妄に過ぎず全く評価されない。儒教は身分階層を肯定する思想だからだ。そのため淡々とスルーされてしまい、評価もされないのだ。奴隷解放や平等宣言などがその典型である。
 さらに武人としての名将であること、勇者であることも無視される。これなど、周公でなく紂王の要素だからである。
 儒教史観での光武帝は、その驚くべき先進性は全く無視されてしまい、ありもしない儒教的要素を強調するため、あまりパッとしないように見えてしまうのである。

EeePC901Xと無線LAN

駅ってほとんどネットがつながるんだ……。結構驚き。
無線LAN凄いな。

謎の一つ

 光武帝が結果的に自殺するように追い詰めてしまった韓歆。直言の士として知られ、言葉に遠慮がなかったというけど、それでも光武帝が怒るのは謎。 司馬光も不思議がっている。
 後漢書にある記述ではとても光武帝がそこまで怒るとは思えず、何か特別なことを言ってしまったのかもしれない。
 考えられるのは、兄の劉縯の名誉にかかわることか。劉秀にとって劉縯の話題は決して触れてはいけない部分だと考えられるからだ。本来、天下のことを始めたのは劉縯であるが、といって劉縯の子孫に権限を返すわけにもいかない。さらに自分が兄を支え守るつもりが失敗したという経緯もある。
 こういう微妙な話題が韓歆の言葉に含まれていても、史官は見落とした可能性がある。劉秀は言葉がもともとひねくれている上に、触れたくない話題であるからそれを直接指摘しないはずだからだ。

儒家史観と共産史観

 儒家史観と共産史観に毒されている限り光武帝の実像は見えない。
 前漢、後漢ともに豪族の成長して民衆を圧迫していくとされるが、これこそ儒家史観の資料記述に基づいた共産史観の解釈である。
 この民衆圧迫の実態は、政府に取られたのが豪族に取られるように方向が変わったということである。政府の強さを考える儒家史観では、それをネガティヴにとらえるわけだ。
 実際の統計人口では前漢、後漢ともにその後半期に人口のピークがある。すなわち豪族が成長した世界こそ国家の経済が最も繁栄した状態ということだ。豪族とは、地域に根ざした勢力であるので、政府のような根こそぎの搾取はしないし、問題に対する対応も早い。
 また豪族は決して不法なヤクザ集団ではない。彼らの多くは県などの父老をつとめる、地方自治体のお役人である。政府の支配が弱まり豪族の支配が強まるというのは、地方分権ということでもあるのだ。

 新末の農民反乱、赤眉、銅馬、緑林などが発生したとき、豪族たちは恐怖し、団結して自立した。それが新末の群雄割拠の実態である。すなわち新末後漢初の群雄のほとんどは豪族連合政権であった。
 その中で明白に毛色が違うのが河北で自立した劉秀、光武帝である。
 光武帝の勢力はどういう構成だったか?

1.南陽から従うお役人。王覇、馬成など身一つで従ったものが多い。もちろん豪族出身もいるが、部下はほとんどなく、豪族としてではなく、能吏としてその力を発揮した。
2.河北で劉秀を迎え入れた豪族。これはまさにその豪族としての勢力で劉秀を支えた。ただし河北の豪族のほとんどは劉秀でなく王郎を支持したので、そのあまりの豪族である。
3.上谷と漁陽の突騎部隊。これこそが建国の主戦力であり、軍の中核である。これも豪族というより、軍人集団である。
4.銅馬の降兵。光武帝の兵員のほとんどは銅馬の降兵である。後に赤眉も降伏させてその兵員も組み入れている。光武帝の兵力のほとんどは銅馬と赤眉という農民反乱集団で構成されているのだ。

 どう見ても豪族によって支えられた集団などではない。南陽能吏、河北豪族、突騎部隊、農民兵団の連合政権なのだ。
 対してその他の群雄は、ほとんどが豪族連合政権である。そのため自分たちの利権にあわない光武帝政権と相容れることはとうていできず徹底抗戦することになる。光武帝はその統一の過程で、中国全土を火の海としてすさまじい戦乱の統一を成し遂げたが、それも光武帝が理想主義に走って豪族との妥協をしなかったためなのである。
 王莽はもちろん劉秀も理想主義者であり、だからこそ問題になった。劉秀が王莽と違い成功したのは、現実主義者だったからではなく、実力があったからだ。王莽が虚名の力だったのに対して、劉秀はその豪腕でねじ伏せたのである。
 だから、しばしば"光武帝が豪族と妥協した"とネガティヴに語るのは事実とは全くの正反対である。光武帝は豪族と妥協せず中国全土を焦土にしてしまったことをネガティヴに語るべきなのだ。

 光武帝の権力は圧倒的だった。それは漢の武帝や秦の始皇帝すらしのぐものである。光武帝は軍人あがりで直接武力を持っているのだから当然である。家臣を粛清しなかったのは、ただその必要がなかったからである。主要な功臣は自分から引退しているし、そもそも皇帝を脅かすような功臣はいなかった。なぜなら皇帝たる光武帝こそが最強の功臣だからである。劉邦にとっての韓信のような、皇帝を脅かす存在はいないのだ。
 光武帝は統一後も皇帝に直属する部隊を維持していた。さらに大臣の権力を排除して、徹底して自分が指示を出し、皇帝の完全一元支配体制を作った。塩や鉄の専売を廃止し、材官騎士を廃止し、国家の民衆経済の干渉を最小限にした。
 光武帝、明帝、章帝とすべて長男でないことは重要だ。すべて当時の言葉でいう儒教――すなわち学問に優れた人物が皇帝となった。賢人皇帝の支配による自由経済社会こそが後漢の特徴である。
 だがこの体制の限界は、皇帝の能力に依存しているということだ。皇帝にすべての権力があるため、皇帝が無能だと国家は無政府状態になってしまう。
 結果、宦官と外戚の抗争により後漢は倒壊するが、これも後漢は皇帝にすべてを依存する体制だったためだ。宦官は皇帝の側近であるから力があるし、外戚は皇帝の親族であるから力がある。決して豪族だからではない。豪族には政権を左右する力がなかった。もしあれば、党固の禁など起きないだろう。学生運動の半数は豪族出身者である。豪族が弱かったから、党固で敗北したのだ。

 まとめると、
1.そもそも豪族には政権を争うような力はない。
2.豪族による民衆の囲い込みは経済発展による必然的なもので、また国家支配ほど過酷ではない。
3.光武帝も王莽も理想を追い過ぎて失敗した。
4.光武帝の建国において豪族の寄与は少ない。

※南陽で成立した更始帝政権と、河北で成立した光武帝政権の性質の違いを無視して混同しているのが、豪族連合政権という発想なのだと思う。

Eee PC 901X

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光武帝はただ光武帝のみが超えることができる

 後漢王朝の人口は9世紀以前では最大であり、史上最も繁栄した古代王朝であった。そしてそれを初めて超えた王朝が900年後の趙匡胤の建国した北宋である。
 趙匡胤とはどのような人物か?
 本来、皇帝になる人物ではなく、将軍として活躍した。武勇優れ、常に陣頭で指揮して戦う勇将であり、建国後も部下に寛容であり、将軍を粛清しなかった。その行動や能力は光武帝にそっくりである。そして常に"赤心を推して人の腹中に置く"という光武帝の故事を心掛けていた人物である。
 すなわち、900年の時を経て光武帝の後漢を超える王朝を建てた男とは、まさに光武帝の再来であった。光武帝を超えたのもまた光武帝であったのである。

 趙匡胤の皇后を調べると、賀皇后が男児三人女児二人を生んで30歳で没。
 次に王皇后が立つも、女児が三人早死にして22歳で没。
 最後に宋皇后が立つも子はなく、44歳で没。
 三人とも従順なおとなしい女性だったようだ。特におもしろいロマンスもなし。みんな早死にだし……

ハードディスク壊れた

パラレルなのに、電源2重差ししてて、気づかずに三年も使い、ついにストップ。
よく見ると、英語で、"電源二つ差したら何が起こるかわかりませんぜ!"と書いてある。

Warning : It is recomended to use either the SATA power connector or the Legacy power connector.
Using both the SATA power connector and Legacy power connector may cause unpredictable results.

英語勉強しないとあきませんね。
新しく買い換えたら、500ギガになってしまった。こんなに容量あっても使い道ないぞ。
設定のし直しとか疲れた……
でも以前の不具合も解消したし、なんだか速くなったのは嬉しい。

光武帝と親友

 劉秀の親友というとまず思いつくのは禹である。しかし禹と劉秀は意外にエビソートが少ない。太学時代仲が良かったが、そのときのエピソードも残っていない。
 また考えると年齢が少し離れているのも気になる。7つも年下だと、いわゆる親友関係というイメージになりにくい。兄弟的な仲の良さの方がイメージしやすい。弟のいない劉秀にとっての弟分というイメージか。
 個人的な関係を示すエピソードが一番多いのが朱祜である。こちらは遠縁ではあるが親戚でもある。その言動を見ると劉秀よりも劉縯と仲が良かったようにも思える。年齢的にも劉秀より少し年上と思われるので、こちらは逆に劉秀を弟分のように見ていたのかもしれない。
 どちらにしても劉秀は誰とも平等に付き合うタイプであるから、親友であるのはそれほど不思議ではないが、無二の親友というイメージとも少し違うのだ。禹も朱祜も家族的な仲の良さなのだ。
 私の考える無二の親友のイメージは、銀河英雄伝説のラインハルトとキルヒアイスのような感じ。ほぼ同年齢であること、そしてある種の疑似恋愛関係を思わせるような人物。
 劉秀の場合のそれは、祭遵である。祭遵はその言動から見て劉秀とほぼ同世代である。そして何より劉秀の祭遵への思いが何か特殊であるということだ。祭遵の死に際しての悲しみ方があまりに異常だということ。涙をほとんど人に見せたことがない劉秀が臆面もなく泣き崩れたのが唯一祭遵なのである。その死後もいつまでも思い出すたびに悲しみ惜しんだという。
 祭遵はその柔らかな物腰と、病弱さ、そして容貌や立ち振る舞いから選ばれ、後に劉秀の軍の軍紀粛清係を務めさらに、将軍として活躍するが、それでも他の将軍に比べて功績が多いとは言えない。その哀惜はあまりにも不自然である。ここには確かにある種の恋愛関係を思わせるものがある。
 祭遵が劉秀に残したもの。兵士への教育という祭遵の考え方は劉秀に影響を与えたと思う。近衛兵に孝経を学ばせるようになったのも、祭遵の影響ではないかと思う。

 私の考える劉秀の行動の謎は3つある。一つ目は、剛直の士韓歆を死に追いやったこと、二つ目は郭聖通はなぜ廃后されなければならなかったのか、3つ目はなぜ祭遵についてこれほど悲しまなければならないのか。
 これらは小説化するならば必ず答えるべき謎であると思う。

後漢の人口

 後漢の統計人口は前漢よりも少しだけ少ない。前漢の前2年に5959万人、後漢157年は5648万人。それでも唐の4600万人よりは多い。
 ローマ帝国で5400万人ぐらいと多く見積もる人がいるが、1000万ぐらいという人もいる。
 宋の時代は1080年に9000万人に到達した。
 そして問題は後漢の人口統計である。
 流民の多さと豪族に囲われた戸籍外人口がどのぐらいか。後漢は他の時代に比較してこの戸籍外人口が非常に多かったと考えられているからだ。史書には流民の記録が非常に多く、さらに部曲という豪族内の人口がある。董卓の遷都のときの数百万という洛陽人口など戸籍人口からは全く一致しない。
 仮に戸籍人口の2割が記録から外れているとしても、実人口は7000万近くになる。私はこの人口数が実際に近いと考えている。すると、後漢王朝は後に北宋に抜かれるまで、人口の最高記録の王朝ということだ。後漢王朝はその後900年間、世界史上において、超えることができないほど経済的に繁栄した王朝だったのである。

 三国志があまりにもひどい乱世なのは、後漢末の人口が中国の生産量に相応しくないほどに過剰になっていたことが一因なのではないかと思う。

撃剣

・大辞泉
げっ-けん【撃剣】
 刀剣・木剣・竹刀で相手をうち、自分を守る武術。剣術。
・明鏡
げっ-けん【撃剣】
 刀剣・木剣などで身を守り、相手を討つ武術。剣術。

読みは"げっけん"だったのか……

後漢王朝と現代史の比較

 光武帝は古代の名君であり、平等思想の強い善意の独裁者だった。大臣からほとんどの権限を奪い、絶対権力を持っていた。
 "善意の独裁者"で、思い浮かべたのが、現代史における東アジアの指導者である。朴正煕やマハティールなど。自己の権限を守るためには強引な手段も用いるが、自身の利益は追求せず、教育を普及させ、経済を発展させた。
 光武帝もまた、自らの利益には全く興味がなく、資産を蓄えるようなことはなかった。学問の振興にはとても力を入れており、太学の建設や地方の学校の整備、近衛兵への孝経を教育などを行った。初等教育も広く普及しており、10歳-14歳のすべての子どもに必ず学校に通わせるように指示が出ている。後漢における学生の多さは、著名な学者に付き従って流浪する学生の数からも推測できる。
 後漢王朝は経済的にも発展し、戸籍人口は最終的に前漢全盛期とほぼ同じ数にまで回復したが、それは戸籍漏れの人口の増大を無視したものなので、実際には前漢よりも遥かに経済発展していた。領土も西域経営に積極的ではなかったので小さいと錯覚するが、ベトナムや南方の開発が進んで国家の重心が南に移動しただけで、後漢は前漢より発展した国であった。
 経済的には国家の統制が外れたため自由経済が発展したが、その半面、貧富の差も激しくなった。格差問題は後漢後半期における大きな問題であった。
 後漢はその後半期の皇帝不在の無政府状態に100年近くも耐えた。格差問題と政府の腐敗は、太学の学生たちによる学生運動を生み出し、政府への社会運動となった。

 こうして見ると、後漢の歴史はまるで現代史を思わせるから不思議だ。後漢は開発独裁国家ととても類似しているのだ。

 だが時代は古代である。精神の発達に物質経済がついて来ることができなかった。学生運動の後の勝利の革命はなかった。大規模な飢饉と経済崩壊、農民反乱と軍閥割拠の乱世へと時代は移行して行く...

牛郎织女故事的起源 / 七夕物語の起源

牛郎织女故事的起源
  七月七日是鹊桥相会的日子(七夕)。七夕是中国的民间故事。最古老的记录在《诗经》里。但在《诗经》里他们还没有谈恋爱。这两个人开始谈恋爱的是汉代以后。
  那么汉代到底有什么事呢?
  下面我想讲一下东汉时代最有名的夫妻的故事。就是东汉建国的光武帝刘秀和其皇后阴丽华。
  刘秀有很多有关牛的故事。他成为皇帝以前,在故乡种田的。他是一个勤奋的年轻人,每天拉牛耕田。然后战争开始的时候,他骑牛出战。还有他做皇帝的时候,他用牛拉的战车,跟北方的匈奴作战。他在泰山封禅的时候,一个神牛来看他。他做皇帝的时候,用牛耕田的方式普及到了中国全国。他的故乡南阳是一个有名的牛的产地。
  皇后阴丽华和刘秀是青梅竹马之交,她是一个有名的美女。阴丽华的家很富裕,但生活很朴素,她自己亲手织布。
  他们俩在战争开始的时候结婚。可是当时的皇帝不喜欢刘秀的才干,让他一个人去河北,阴丽华在南阳等待他。刘秀和阴丽华隔着银河...隔着黄河分开了。
  几年后,刘秀当了皇帝把阴丽华接来,后来他们一起幸福地生活。
  他们俩和牛郎织女的关系,在《后汉书》上能看到。刘秀出生之后,牵牛星旁边出现了很大的彗星,阴丽华去逝之前在织女星旁边出现了很大的流星。
  我想刘秀和阴丽华是牛郎织女故事的起源之一,你们觉得呢?

七夕物語の起源
 7月7日は七夕です。七夕は中国の民話です。最も古い記述では詩経にその原形があります。ただしまだ恋人同士とは考えられていませんでした。この二人が恋人同士と考えられるようになったのは、漢代を超えてからです。
 それでは漢の時代には何があったのでしょうか?
 後漢の時代の有名なカップルの話をします。それは後漢を建国した光武帝劉秀とその皇后陰麗華です。
 劉秀という人は牛と関連が深い人です。皇帝になる前はで田舎で農業をしていました。勤勉な青年として知られ、牛をひいて耕していました。戦争になったとき、劉秀は牛にのって出陣したことで知られています。北の匈奴と戦うときに牛の戦車を作ったとか、泰山で封禅の儀式をするとき牛がそれを見るために登っていったという言い伝えがあります。また牛で田畑を耕すのが中国全土に広まったのは光武帝の在位期間であることが知られています。またその出身地の南陽は有名な牛の産地でもあるそうです。
 陰麗華はその劉秀と同郷の幼なじみで、とても美人として有名でした。陰麗華の実家は大富豪でしたが、節約する風習があり、陰麗華自身も機織りをしたそうです。
 この二人は戦争が始まった頃に結婚します。しかし当時の皇帝は劉秀が有能なのを嫌って北方へと単身赴任させます。劉秀と陰麗華は天の川……いえ黄河を隔てて離れ離れになったのでした。
 数年後、皇帝に即位した劉秀は陰麗華を迎え入れ、二人はめでたく一緒に暮らすようになりました。
 この二人と、牽牛と織女との関係は後漢書の天文の記録にも現れています。劉秀が生まれた翌月には牽牛の星座に彗星が現れ、陰麗華が亡くなる直前には織女の星座に大きな流星が現れたとあるのです。
 私はこの二人が牽牛と織女の物語の源流の一つではないかと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

王莽とヒトラー

王莽はヒトラーに似ているように感じる。
国民の期待を背負って合法的に出世し頂点を極める。
外交的に大失敗して国を滅ぼしたこと。
教条主義的な政治と狂信的性格。
仕事中毒。
自分のためではなく、国民のためと信じて努力したこと。
戦場に出たことはなくそういう恐ろしい現場を直視できない。
奇妙な思いつきにこだわり、発明を好む。
暗殺計画。
死ぬときの狂気の様子。
スタイルにこだわり、外見を非常に気にしていること。
プロパガンダの天才。

二人は同じような脳の病気を抱えていた可能性があると思う。
ヒトラーはパーキンソン病だったと考えられている。

楽此不疲(楽しんで熱中すれば疲れない)

 『現代漢語大辞典』を読んでいたら「楽此不疲」という成語を発見した。
 東漢光武帝は政務処理に勤め学問を学んでいるので、皇太子が精神を休め働き過ぎないように勧めると、「私はこれを楽しんでいるから疲れないのだ」と言った。これは光武帝紀の下巻に見える。
 これ以後、「楽此不疲」は物事に楽しんで熱中すると疲れを感じないことを指すようになった。
 ……

 思うに探せば、光武帝の成語が大量にあるように思う。大量にあるんだけど、光武帝とは気づかれていないものが多いのだ。光武帝発の成語をちょっと確認してみようと思う。

支配者でなくリーダーであること

劉秀の性格について考えていて、特徴的だと思ったことは、
人に命令しないこと。
杖罰でも、他の皇帝は打てと命令するのに、
劉秀は、命令するより先に自分から動いている。
とにかく命令を出して人を動かすということをあまりしない。
まず自分が動いて、後から人がついてくる。
指示を出すのではなく、俺がやるから真似しろ、というタイプ。
人の上に立つのが好きじゃないのがよくわかる。
本物のリーダー(リードする人、導く人)である。
二十八将を遠征に派遣するときも具体的な指示はほとんどなく、
明らかに兵法的に間違っているときに注意する以外は勝手にやらせている。

上に立つ人が何でも自分からやってしまうので、
部下もやらなきゃしょうがなくなる、という形で部下を動かしていた。

こういう自分で何でもやるタイプの君主だと、
部下は何もしないし、部下に何もさせないことがある。
典型的なのは項羽で、自分一人で戦ったので負けてしまった。
あの曹操ですら、曹操自身が常に動くだけで、
同時に部下が領土を広げて戦いを展開することなどなかった。
劉秀の場合は全く異なり、部下は自分の判断で勝手に動いていた。
これは他の時代の英雄にもほとんどない本当に凄いことである。

また行動するときあまり人に相談しないのも印象的。
通常は軍師格の人がいて何でも相談するという英雄が多いなか、
劉秀はすべて自分で判断して動き、
そこに他の人が進言するというパターン。
主君も家臣も自主的であるところが特徴的だ。
求めに答えて動く人たちではなく、常に自ら動くのである。
しかも相互に相談もせずに動き、それで齟齬が生じない。
劉秀とその家臣団は、志の統一された理想的な集団であると思う。
プロフィール

akira080227

Author:akira080227
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光武帝と建武二十八宿伝
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